レッド・バイオリン

次のゲームの企画参考として、前々から観たかったこれを満を持して鑑賞。
ある悲劇から呪術的アイテムとなったバイオリンとそれを巡る人々のドラマなのだが、一歩間違えるとB級ホラーになりかねない題材を一級のビジュアルとサウンドで格調高さすら感じるレベルまで持っていけたのは、制作者チームの自力の高さを感じさせる。
こういった、主人公がコロコロ替わるオムニバス形式の映画はどうしても1エピソードあたりの尺が短くなるため、またエピソードの出来に凸凹ができてしまうため、どうしても長編ほどのインパクトは持ちづらい。
それを覆す可能性があるのが「エピソードの繋ぎ方の妙」であり、例えば山田風太郎における連作短編形式の諸作品はその効果によって、長編とは異なる独特の魅力を発揮することに成功していた。
残念ながら本作、そこまでには到達していない。
タイトルロールであるバイオリンを全面に押し出した音楽と史劇の風格を備えた撮影、タランティーノ風の編集マジックによって時間・空間を超えた映画体験をさせてくれる演出、この一見ミスマッチな取り合わせが「現代的な時代劇」として巧みに構築されているので、その視点から楽しむのが正解なのだろう。
その意味では、「どこまで行くんだこの映画!?」と思わせた『クラウド・アトラス』とは似て非なる映画なのかも知れない。あと、ハリウッド映画では見られない唐突なエロ(アオリにあるような「官能の」という品の良さはあまりない)にフランス映画を感じた。

シン・エヴァンゲリオン劇場版

映画はずいぶん素直で引っかかりのない作りだったが、「エヴァの本当の完結編がこんな作りである事」自体が本当に驚きだった。
タイトルも、イチイチ引っかかりを盛り込んだ「ヱヴァンゲリヲン」から素直な「エヴァンゲリオン」表記に戻った本作は、「『逆襲のシャア』に心酔した庵野秀明」とは別個の作家の作だ。
というわけで、以下ネタバレ遠慮なくいきますので未見の方はご注意を。


昔、「ティム・バートン監督」といえば、ある種の人間にとって強烈な引力を持つ名前だった。特に『シザーハンズ』や『バットマン・リターンズ』、『ナイトメア・ビフォア・クリスマス』といった作品群に代表される、孤独と破滅的ユーモアに彩られた独特の世界に魅了された人はエヴァ世代にも多いだろう。その彼のフィルモグラフィにおいて、始めて「おや?」と思わせたのは『マーズアタック!』、そしてのちの『ビッグ・フィッシュ』で、その違和感は明確に言語化された。「彼は、大人になったんだ」

というわけで、今回の『シン・エヴァ』には『ビッグ・フィッシュ』の強烈なデジャブを感じた。「この監督はこんなことしない」「しかしやっている」「ということは、この監督は変わったのだ」を確認するかのような鑑賞体験。思えば、庵野監督の前作にあたる『シン・ゴジラからして既に大きな変化はあった。コミュニケーションの齟齬を執拗に描いてきた監督が、唐突に*1「力を合わせて立ち向かう人々」を描いている。『逆襲のシャア』に感動し、その剥き出しの人間ドラマにアニメの未来を見た青年庵野秀明は、もうここにはいない。『シン・ゴジラ』が庵野監督にとっての『マーズアタック!』であり、本作が『ビッグ・フィッシュ』であろうことは、本人が望んだことではなく結果にすぎない。

エヴァは「ダメな大人」によってお膳立てされ、「未熟な子供」が右往左往あっちにぶつかりこっちにぶつかる物語だった。本作は違う。
「ダメな大人」に代わり、「ダメな大人を見て育った子供」たちが、「より良くあろうとする大人」として登場する。そしてあとから再登場する元「ダメな大人」たちは、そのダメさを反省し解脱する。基本的に、本作がやっているのはそれだけだ。
演出のタッチも相当に異なり、謎めいたカットはなく、すべてをセリフで説明してくれる。最新流行の『鬼滅の刃』のように。音楽も「TVアニメの映画版」ぽい鋭さが重厚さにとってかわり、編曲や既存曲の選曲も含めて「普通の実写映画」のようだ。

ラストシーン、大人になった主人公 碇シンジはもはや逆シャアの頃の監督の分身でもなければ*2、90年代を代表した非コミュのアイコンでもない。彼はアニメのキャラクターであることをここで終わらせ、現実の世界に駆け出して我々の元を去った。入念に、表面的、衒学的、メタ的すべてのレベルにおいて同じメッセージ、「彼は大人になって現実に帰りました」を発している。

作品にわからないことはない。多層的に同じことを言っているのだから間違えようもない、ともいえる。しかしその作風の変化、その理由はわからない。
バートンのように伴侶を得たり、父親を亡くしたり、といった経験がそのきっかけかもしれない。単に年齢を重ねて、キャラクターに感情移入できなくorできるようになったからかもしれない。東日本大震災が彼の価値観を大いに揺さぶったのかもしれない。
理由はわからないが、これがおそらく不可逆な変化であろうことはわかる。

最後にちょっとだけスタッフ、技術面について。「監督」がたくさんクレジットされていることに驚いたが、その多くが(当然ながら)プリビズのスタッフを兼ねている、ということで、本作はアニメでありながらおそらくは『シン・ゴジラ』と同様な制作フローが取られているのではなかろうか。庵野印のキメキメのレイアウトによる緊張感あるFIX構図や矢継ぎ早のカッティングは今回ぐっと抑えられ、おそらくは各監督たちの裁量に多くが委ねられているように見える。穏やかな作風はおそらくそこにも理由があるのだろう。

どちらにしても、こんなまるで今川監督のような*3、真面目でオーソドックスな「父を越える息子」の物語としてエヴァが完結を見るとは想像もつかなかった。前作「Q」の感想で自分が書いたこと(https://sifi-tzk.hatenadiary.jp/entry/20121216/p2)は、性的要素への興味減退含め*4、当たらずとも遠からず、といったところ。
自分より一回り上の庵野監督のけっこう堂に入った「大人の仕草」を見せつけられて、自分の老後がちょっと怖くなってしまう一作だった。

*1:いや、序・破の時点でその萌芽はあったのだがこちらがフシアナだったので気付かなかった

*2:声が違うのはその暗喩であろう

*3:音楽に参加している天野氏や、エッフェル塔の使い方などは庵野氏も参加したGロボを強く思わせる

*4:なにしろセックスを描かずに妊娠出産を描くのだ。細田守宮崎駿の逆に進んでいる

ジョーカー

「ジョーカー誕生秘話をスピンオフで映画化」と聞いて最初に思い浮かべたのはアラン・ムーアの手になる「キリングジョーク」*1で、まぁあんな感じの作品なんだろう、金獅子賞獲ったってんなら結構シリアスに作られてそうだな…程度の認識で鑑賞。結果、かなりの衝撃を受けた。

以下ネタバレ全開で、自分の受けた衝撃について書いておきたい。

まず本作で驚かされるのは、「アーカム精神病院に入れられる狂人」という設定であるジョーカーを、ジョーカーになる以前からの「精神障害者」として描いていることだ。それにより、本作はコミック的に社会から「切断」された悪役を、「現代のリアルな個人」として社会に再配置し直しており、この時点で「キリングジョーク」の「個人的な悲劇により精神が壊れた」ジョーカーとは異なる物語であることが宣言される。

ゴッサム/ニューヨークの格差社会において、その最下層のさらに被差別階級である主人公アーサーの描写は執拗かつ救いがなく、一見救いに思われた彼のささやかな楽しみさえ、いつしか反転して彼を苦しめる側に回る。徹底して主人公に寄り添うカメラは、その辛く苦しい現実をひたすら写し出し、観客の心を寒からしめる。コミック的なジョーカーとバットマンの因縁「私が君を作った。だが君が私を作ったのだ」もさらにもう一捻り加えられた挙句、もっと過酷な現実に回収されてしまう。こちらも「コミック的ステレオタイプな設定」を解体無効化し、現代の現実世界を描こうとする制作者の意図を強く感じさせる。

徹底したリアリズムとともにもう一つ、「偶然性の排除」も本作の特徴といえる。どんな悲劇も、起きるべくして起きるのだ。それは主人公の障害でさえも、虐待による器質的な原因を疑わせる展開として発揮され、ここで『ダークナイト』の「理由を求め得ない絶対悪」としてのジョーカーも否定される。『ダークナイト』の「2008年のリアル」は過去のものとなり、「2019年のリアル」のなかば必然として、ジョーカーは格差と差別のシンボルとして『タクシードライバー』的なカリスマとして再生する*2

ホワイトルームの流れるゴッサムのシーンはまさに現在の香港を強く思い出させ、徹底的に「いま、ここ」にこだわった作品のみが持ち得る奇跡的な現代とのシンクロに大いに心を震わさせられた。

「ここまでリアルで陰鬱な物語がアメコミ原作である必要があるのか?」という意見も聞かれたが、本作の奇妙にカタルシスのあるクライマックスを観て、これはアメコミ原作でなければ許されなかったエンディングだと感じた。

このジョーカーは、この先「みんなの知っているあのジョーカー」になる。そんなことは、この映画を観る前から観客にはわかっていたはずだ。終わり方が決まっているからこそ、「そのエンディングでしか表現できない尖ったテーマ」を、本作のスタッフは選ぶことができたのだろう。いわば、アメコミ原作であることを隠れ蓑に、彼らはインモラルな、もっと言えば反社会的とさえいえる表現をしれっとやってのけたのだ。

とてつもなく危険なメッセージを社会に振り撒きかねない映画だが、コミックという枠組みを巧みにまとうことで初めて生まれえた「現代」を抉り出す傑作だと思う。特に35歳以上には強くお勧めしたい。

*1:ダークナイト』公開の時に読んだ感想 https://sifi-tzk.hatenadiary.jp/entry/20080927/p2

*2:この重要なターニングポイントを握る人物を『タクシードライバー』の主人公を演じたデニーロにキャスティングした制作陣の確信犯ぶりも凄い

「高畑勲展ー日本のアニメーションに遺したもの」

https://takahata-ten.jp/

こちらは江戸城跡の国立新美術館での開催。平日の午後に鑑賞したが、客層の年齢は高く(女性比率も高い)、平日とは思えない混み具合に、一般的な「アニメファン」とは異なる高畑氏の国民的人気を可視化された感がある。

こちらも高畑氏の生い立ちから順にフィルモグラフィを辿る構成だが、東映動画入社に至るまでの部分は少なく、富野展との違いを感じさせる。その数少ない創作の「原点」、高畑監督最初のアニメーションへの興味は、ポール・グリモーの『やぶにらみの暴君』(1953年)にあった。当時東大仏文科の学生であった氏は、本作に「アニメーションが思想や社会を語ることができる可能性を感じた」という。

氏や氏のスタジオであるジブリが「なぜこの作品をいま世に送り出すのか?」を徹底的に考える、そのベースはまさにここにあったと思える。そして、それを黎明期の日本のアニメーションで実現するために、高畑氏は現場の徹底的な破壊と構築を必要としたのだろう。その実践の場が高畑勲の初監督作『太陽の王子ホルスの大冒険』(1968年)。

このホルス関連の展示は本当に衝撃的で、自分はここで徹底的にぶちのめされた。クリエイターとしての格の違いを見せつけられたと言ってもいい*1

ホルスで氏が行ったのは、東映長編の継承ではなく、まったく新しい「高畑流」の映画制作スタイルの確立だった。スタッフの奥山玲子氏(朝ドラ『なつぞら』の主人公のモデル)はそれまでの自由なアニメーション製作のスタイルと異なる、作品のすべてを監督がコントロールする本作の現場にたいそう戸惑ったそうだが、それを裏付ける膨大な資料からは、キャラクターデザインからテーマから脚本からセリフから観客のテンションコントロールから音楽から作画から撮影に至るまで、本当にあらゆるセクションにこれまでのアニメーション作りの否定と、とことん理詰めの工学的な高畑理論に合致する新しいスタイルの創作とを、高畑監督が要求したことが見て取れる。相手が先輩だろうが大御所だろうがお構いなし、すべてを理屈でねじ伏せていく氏の監督術は、氏の柔和な性格にも緩和されず現場に巨大な反発を招いたようで、氏のオーダーに対してスタッフからの返答が書かれたメモは「辛辣」といって過言ではないものだった。それはそうだろう、いくつもの作品で場数を踏んだプロのメソッドをあてにせず、見たこともないやり方を押し付けてくる新人監督に対しては、本能的な嫌悪や、頭でっかちのシロートさんへの揶揄などがあって当たり前だ。その反発に対して、高畑氏はやはり理論で圧倒する道を選んだと思われ、それは奇妙にバランスを欠いた、荒削りな完成作品を見ればある程度理解できるだろう。

結果として、ホルスの興行成績は振るわなかったが、彼の才能を見込んだ人々と手がけた『アルプスの少女ハイジ』(1974年)と、その商業的な成功に繋がってゆく。

過酷なTVシリーズを経たことで、理論に実践からのフィードバックが加わり、氏は『赤毛のアン』(1979年)の頃にはすでに巨匠としての風格さえ備える演出家となった。大画面に展開するアンのOP映像はとてもエモーショナルで、「理屈で感情を支配する」高畑マジックの最初のピークと言っていいだろう。

以降の作品の展示には、いずれも作品的な見所はあっても、その作り方の面ではあまり変化を感じなかった。遺作となった『かぐや姫の物語』(2013年)にしても、氏が東映動画入社間もなくの時期に宿題として与えられたという内田吐夢版「竹取物語」企画*2を、当時できなかった理詰めの演出で完成させたものだ。

自分はこれまで高畑氏を「東映長編の最後の継承者」のように捉えて、ジブリもその延長線上と考えていたが、宮崎駿はともかく、高畑勲においてはその解釈は多分に誤りであると認識させられた。スタッフへの要求水準の異常な高さから「高畑勲の通った後はペンペン草も生えない」とまでいわれた氏だが、それ以前に「高畑勲は道無きところに道を通す」人物だった。実写と違い映像のすべてをコントロールできるアニメというメディアを「映画」とすることに成功した氏の、その狂的なまでの「理論化」へのこだわりを可視化したこの展覧会は、クリエイターにとって毒薬にも特効薬にもなりうる。自分はしばらく悪酔いしてしまったが、特に「集団を率いて作品を創るクリエイター」には強くお勧めしておきたい。こちらも、今後巡回展が予定されているようだ。

*1:ちなみに、本作の解説で若干期待していた白土三平からの影響(https://sifi-tzk.hatenadiary.jp/entry/20171007/p3)については触れられていなかったのは残念

*2:興味のなかった原作を徹底的に読み込み、それを映画とするに値するテーマを掴んだところで、制作体制から演出に至るまでの改革の構想だけで放置されていた

「富野由悠季の世界」展

https://www.tomino-exhibition.com/

たまたま福岡出張のタイミングだったので、これは行けってことだな!との勝手な思い込みに従い強行軍で鑑賞。

会場の福岡市美術館大濠公園という大きな湖のほとりにあり、かなり大規模な美術館。平日の午前中だったが、やはり自分のようなアラフィフ男性を中心にそこそこ混んでいた。

展示は富野氏の年齢とフィルモグラフィを対応させつつその足跡を辿る形式で、ガンダム以外はあまり知らない自分のような浅いファンにも優しい作りとなっている。

個人的に、今回の展示の最大の見せ場はその初っ端にあった。富野少年の父が軍の技術者であることは以前NHKで放送したドキュメンタリー「わたしが子どもだったころ」で知っていたが、その富野氏の父が設計した潜水服が実際に作られ、明らかにそれを参考にしたと思われる富野少年の宇宙服のスケッチ、そして宇宙旅行協会に参加し、戦記モノと小松崎茂に耽溺、必然的に手を染めた初期創作作品の展示を見るにつけ、「モビルスーツ」による宇宙戦争モノは、彼のフィルモグラフィにおいて出るべくして出現したものなのだ、と強く認識させられた。もちろん、鑑賞者にそう思わせることを予め意図した展示なのであろうが、ここまで「宇宙とドンパチ」が大好きな少年だったとは、自作にシニカルな現在の氏の発言からは想像し難かっただけに、今後の富野作品批評においてターニングポイントとなりうるインパクトがあった。

一方で、メカニックやハードウェア、組織論といった氏の男性的な作劇についてある程度の納得を与える反面、氏のもう一つの特徴である個性的な女性キャラクターについての手掛かりが、この展示にほとんどないことは不思議に思った。氏が影響を受けた人物として挙げられるのも(少年時代を除けば)手塚治虫高畑勲のみであり、見てわかるように、彼らの影響は氏の作品からはあまり読み取れない。全体に、題材について納得を感じさせつつも、ドラマについて納得を与えてくれない展示となっている。

また、その展示の並び順による錯覚なのか、後年…というか『機動戦士Zガンダム』(1985年)以降の富野氏は描くべきテーマを失い、なんとかして自らから「描きたいテーマ」を絞り出すべく孤軍奮闘している印象を受けた。ことによると富野版『2001年宇宙の旅』である『伝説巨神イデオン』(1980年)以降、と言ってもいいかもしれない。氏はSFに対する興味を失い、よりドラマ志向を強めていくものの、そのドラマをどこに向かわせるか?について、自身を納得させることが長らくできていなかったのではないか。これは仮説だが、『∀ガンダム』(1999年)前後で「歴史」という概念を自作に持たせることによって初めて、「皆殺しの富野」に頼らない、納得できるドラマの着地点を見出したように思える。

また今回意外だったのは、企画書やメモ、コンテなどの展示で明かされる氏の趣味や思想が意外なほど穏健でありつつも、それが自作にあまり反映されていない、と思われることだ。本編から企画意図があまり感じられないことは、自分の感度の鈍さもあるとはいえ、これは氏が映像「作家」ではなくアニメーション制作の現場とそのアウトプットこそを愛する映像「職人」である証左なのかもしれない。

氏の近作はほとんど未見だったのだが、日本の歴史と絡めた新『リーンの翼』、これまでの自作自体を歴史として位置付けた『∀ガンダム』、氏が過去作に新たな解釈を加えた劇場版『Zガンダム』には特に興味を惹かれた。今後鑑賞してみたい。

最後に。展示の物量は凄まじいので、富野氏の全作品のファンであれば1日では回りきれないだろう。分厚い図録も情報量が半端なく、今後の巡回展に行かれる方には、それなりの用意をしてからの鑑賞をお勧めしておきたい。 

TEXHNOLYZE

こちらは2003年の作品。『serial experiments lain』に始まる一連のシリーズの一作なのだそうだが他の作品は未見。『赤い光弾ジリオン』で作画監督をされていた浜崎博嗣監督のTwitterでの発言から興味を惹かれて鑑賞した。
見始めてすぐ、これは非常に難しいことをやろうとしている作品だ、と感じた。特に演出において従来のアニメのセオリーを踏んでおらず、畢竟視聴者も従来のアニメのような見方では作品を味わうことが難しい。
とはいえそれが徹底されているかというと、そうでもないところが惜しい。舞台となる「流9州(ルクス)」の正体が明かされる終盤に入ると脚本が演出を凌駕するようになり、説明や台詞がシーンを覆うに連れて、「ストーリーに関係なく存在していた」主人公の存在感が解体されるような居心地の悪さがあった。なんというか、作り手が単一の「意味」を持たせてしまったがゆえに、あらゆるものに意味(というか整合性というか)が求められてしまっているというか。「感じる」作品としては(特に中盤が)素晴らしいが、「読み取る」作品としてはバランスの悪さを感じる。
本作における出色のキャラクターは主人公ではなく、その初期は視聴者の視点として登場し、のちにその役割を逸脱し自ら作品世界を変革しようとする「吉井」であることには異論は少ないだろう。世界の秘密を独占したまま、組織も持たずに自らの欲を解放していく彼には、単なるトリックスターを超えた異様な存在感があった。モブのようなルックスに朴訥とも取れる井之上氏の演技が時に狂気を孕み、舞台を「逸脱」させていく過程には、他作品では味わえない独特のスリルがある。
終盤で明かされる世界の秘密は、ウェルズ『タイムマシン』と非常に似ている。タイムマシンにおける野蛮なモーロックが本作におけるヤクザであり、ヤクザの生命力に人類の未来を見る展開は、暴走族が一手に人類の未来を担ってしまう『メガゾーン23』などを彷彿させるが、とことんドライな本作はその芽をも最後には摘んでしまう。また、本作における「世界」のあり方や、吉井の立ち位置などの構造面では『THEビッグオー』との類似が見られるが、こちらはは本作と同じくシリーズ構成を小中千昭が手がけており、またその最終章となるseason2は本作とほぼ同じ時期に制作されている。ビッグオーにおける「よくわからない世界だがその秩序は守る」主人公ロジャーは大西の、「世界の秘密を知って狂った理想に取り憑かれる」記者シュバルツバルトは吉井の、それぞれオリジンといえる。演出面で共通点はほとんどないが、本作とはきわめて近い関係の作品といえるだろう。
メッセージ性に乏しい本作だが、その卓越したビジュアルセンスは世界やキャラクターそのものを観る者に撃ち込んでくる。言語や肉体言語に頼らないアニメとして、稀有な体験を求める向きには強くおススメ。

虐殺器官

伊藤計劃以後、という言葉さえ生んだ著者デビュー作のアニメ化。原作は未読だが日記の映画評はちょくちょく読んでいたので、氏がどういう思考の持ち主でそれがどう作品に反映されているかはなんとなく理解できる。
伊藤氏のSFに対するスタンスは映画監督アルフォンソ・キュアロンのそれに近い。現代の問題をそのまま敷衍すると現れる、ある種のディストピアを描く作家なのだと思う。それが、小松左京以降の現代との接点を失いつつあった日本SFにおいて鮮烈な印象を与えたのではないか。
アニメ映画となった本作は、美少年アニメーターとして一世を風靡した村瀬修功氏が監督・脚本からキャラデザや作画監督までを手がけている。画面は硬質で語り口はあくまでシリアス、いかにも日本のアニメっぽいクローズアップ演出を抑えた洋画のような空気感は新鮮だ。洋画的な空気を目指したアニメ、という点ではガンダムUCをより徹底した作品と言えるかもしれない。
これでも相当端折られているのだろうと思われるストーリーは緊密度が高く、シーンに詰め込まれた情報量は相当なものだ。監督の力量を感じる。
ただやはり、主人公が弱く、本作におけるレクター博士たるジョン・ポールのカリスマがあまり見えないこともあって、どうしても作品にノレない感じは残った。また、本作最大のギミックである「虐殺の文法」が画にできない「概念」であることもあって、映像化にはやはり向かない原作なのでは…という疑念も拭えない。
原作は10年以上前に書かれたものだが、その「虐殺の文法」はおそらく1994年のルワンダ虐殺をヒントにしていると思われる。そして伊藤氏亡き後の現代において、ヘイトスピーチと排外主義、本邦の「こんな人たち」発言の宰相やトランプ大統領を始めとした国民の分断と対立を煽る国家指導者の登場、とSFだったはずの「虐殺の文法」はきわめて身近な存在となった。なんなら川崎あたりでは、映画館を出た瞬間から地続きの「虐殺の文法」に晒される体験すらあり得る。
その意味で、原作の持つアクチュアリティは現代においてより高まっていると言えるだろう。難解で死臭が漂い、最後まで救いの乏しい物語だが、現代に問う意味のある映画だと思う。日本のアニメにおいて『機動警察パトレイバー THE MOVIE2』以来の硬質なポリティカルフィクションとしても貴重な存在であり、課題はあれどもアニメファンやSFファン、伊藤計劃読者以外にも広くオススメしたい。