虐殺器官

伊藤計劃以後、という言葉さえ生んだ著者デビュー作のアニメ化。原作は未読だが日記の映画評はちょくちょく読んでいたので、氏がどういう思考の持ち主でそれがどう作品に反映されているかはなんとなく理解できる。
伊藤氏のSFに対するスタンスは映画監督アルフォンソ・キュアロンのそれに近い。現代の問題をそのまま敷衍すると現れる、ある種のディストピアを描く作家なのだと思う。それが、小松左京以降の現代との接点を失いつつあった日本SFにおいて鮮烈な印象を与えたのではないか。
アニメ映画となった本作は、美少年アニメーターとして一世を風靡した村瀬修功氏が監督・脚本からキャラデザや作画監督までを手がけている。画面は硬質で語り口はあくまでシリアス、いかにも日本のアニメっぽいクローズアップ演出を抑えた洋画のような空気感は新鮮だ。洋画的な空気を目指したアニメ、という点ではガンダムUCをより徹底した作品と言えるかもしれない。
これでも相当端折られているのだろうと思われるストーリーは緊密度が高く、シーンに詰め込まれた情報量は相当なものだ。監督の力量を感じる。
ただやはり、主人公が弱く、本作におけるレクター博士たるジョン・ポールのカリスマがあまり見えないこともあって、どうしても作品にノレない感じは残った。また、本作最大のギミックである「虐殺の文法」が画にできない「概念」であることもあって、映像化にはやはり向かない原作なのでは…という疑念も拭えない。
原作は10年以上前に書かれたものだが、その「虐殺の文法」はおそらく1994年のルワンダ虐殺をヒントにしていると思われる。そして伊藤氏亡き後の現代において、ヘイトスピーチと排外主義、本邦の「こんな人たち」発言の宰相やトランプ大統領を始めとした国民の分断と対立を煽る国家指導者の登場、とSFだったはずの「虐殺の文法」はきわめて身近な存在となった。なんなら川崎あたりでは、映画館を出た瞬間から地続きの「虐殺の文法」に晒される体験すらあり得る。
その意味で、原作の持つアクチュアリティは現代においてより高まっていると言えるだろう。難解で死臭が漂い、最後まで救いの乏しい物語だが、現代に問う意味のある映画だと思う。日本のアニメにおいて『機動警察パトレイバー THE MOVIE2』以来の硬質なポリティカルフィクションとしても貴重な存在であり、課題はあれどもアニメファンやSFファン、伊藤計劃読者以外にも広くオススメしたい。