シン・仮面ライダー

かなりイビツな映画だ。本作は映画にも関わらず、庵野監督が以前に脚本等で参加した『シン・ウルトラマン』同様、「原作となるTVシリーズ当時のチープな特撮を、現代の映像技術で予算をかけて再現」+「部分的にリッチで現代的な画づくり」という、面倒かつ利の少ないアプローチで制作されており、前者の比率が高い本作のそのイビツさ、特異性は「シン」シリーズにおいても随一だと思う。
『シン・ウルトラマン』と本作の差は大きく分けて3つ。1つは今回は監督も庵野氏であること*1。次に「怪獣」や「巨大ヒーロー」といった、スクリーン映えするガジェットを欠くこと。そして最後に、原作の、さらに原作に当たる(正確には原作ではないのだが、舞台挨拶で監督が「原作」と発言しているので本稿ではその認識を踏まえて石ノ森章太郎によるコミック版を「原作」として扱う)作品があること。

近年の石ノ森章太郎ヒーローの現代リブートとして、『009 RE:CYBORG』(神山健治監督・2012年)がある。
神山氏は庵野氏が総監督を務めた『シン・ゴジラ』に初期プロットで参加しており、同作がポリティカル・フィクションとして成立するにあたって最初の道筋をつけた人物でもある。その神山監督の手懸けた009は、やはりポリティカル・フィクションの側面を強く押し出した作風であり、基本的に「疎外者」「アウトロー」である石ノ森章太郎ヒーロー作品としては大胆とも言える改変を加えている。
『シン・仮面ライダー』では逆に、社会性はオミットされている。敵となる「ショッカー」がどの程度社会に浸透し、社会に害をなしているかは作品を見てもよくわからない。また、TVシリーズで主演した藤岡弘、が発する男らしさ、逞しい体躯と太い声が生み出す「見るからに強くて頼もしい」、一種梶原一騎的でもあるヒーロー像も本作は切り捨てている。
代わりに採用された世界観は、コミック版の持つ「抜け忍モノの構造」と「繊細なキャラクター」だ。
神山版009のサイボーグ戦士はサンダーバード的な「体制秩序の守護者」だった。その「敵」も、悪の秘密結社から現代の民間軍事会社にアップデートされている。
対して庵野版ライダーは終止ショッカー内部の仲間割れ≒抜け忍と組織の戦いとして描写され、「シン」シリーズ譲りの「政府の男」ももっぱら情報収集と後始末の最低限のリアリティ担保、またファンサービスとしてのみ機能する。仮に彼らが登場しなければ、ショッカーが本当に社会に仇なす存在かどうかすらわからなくなるほどだ。

映像はときにパワフルだが肝心なところで「あえてのチープさ」が目立つ。演出面でもセリフ頼りで感情の起伏が伝わらず、その意味では樋口真嗣が監督したこれまでの「シン」シリーズに大きく劣る。手垢の付いた選曲センスも含め、庵野秀明のクリエイティビティの枯渇が心配になった。
反面、そのぎこちない演出の手つきを含め、繊細なキャラクターたちが紡ぐ儚い生き様はまさに庵野秀明の原液と呼べる濃厚さで、「シン」シリーズでもっとも賛否両論となった本作が熱狂的なファンを多数生み出したのもむべなるかな、だろう。

少女マンガを「居場所を求める物語」と仮定したのは藤本由香里『私の居場所はどこにあるの?』だが、ショッカーとの決着を描かない本作は石ノ森章太郎少年マンガイズムをも超え、庵野秀明の希求してやまない少女マンガ的な世界を描いた。氏は続編の構想も語っていたが、少なくとも本作は、本郷猛、緑川ルリ子、一文字隼人の彷徨う魂に居場所を与える物語だった。そのイビツさが独特な魅力を放つ作品として、今後本作は『エヴァンゲリオン』と並んで庵野氏の代表作となるかもしれない。

*1:『シン・ウルトラマン』は樋口真嗣監督

トップガン マーヴェリック

1986年公開の『トップガン』の、まさかの36年後の続編。とはいえ、ここのところブレードランナーの続編が出たり、デューンが再映画化されたり、あまつさえ同時期に『シン・ウルトラマン』も公開中なのでそれほどのインパクトはない。

本作における最大の特徴は、「作中においても現実世界と同じだけの年月が過ぎていること」だろう。もちろんこれは本作が実写映画でありかつ、前作と同じ役で前作主人公が登場している以上、ある意味では必然的な選択ともいえる。これも、近年では『男と女』の53年後を同キャストで描く続編が登場しており、ある意味トレンドと言えるのかもしれない。
その『男と女 人生最良の日々』はスタッフも前作と同じだったが、本作『トップガン マーヴェリック』は前作の監督トニー・スコットからしてすでに故人であり、別のスタッフによって撮られた続編となる。

監督ジョセフ・コシンスキーは『オブリビオン』でトム・クルーズと組み、作品にトム作品のオマージュを詰め込みまくった*1筋金入りのトムオタクだ。そして脚本のクリストファー・マックァリーはブライアン・シンガーの処女作『パブリック・アクセス』からシンガー監督の相棒として長らく脚本を手掛けていたクセモノ脚本家である。*2

その二人が組んだ本作『トップガン マーヴェリック』は、大味な前作をベースに緻密なストーリーと大胆かつ繊細な演出を両立させた、続編としてこれ以上ない作品となったのではないかと思う。同時期公開の『シン・ウルトラマン』が原作スキスキ!の稚気に溢れた作品だったのに比べ、作品との距離を取った上で丁寧に前作愛を語る、大人な作品といえる。

前作との距離感に関して、まさかの映画開幕早々に流れる前作のテーマソングと言える「デンジャー・ゾーン」の使い方からして唸らされた。この曲をクライマックスに持っていくこともできただろうに、それをせずに冒頭で「使ってしまう」ことで、前作を知っている観客にノスタルジーと、それとの決別とを同時に味わわせる演出はクレバーかつエモーショナルだ。

本作は『オブリビオン』同様に、前作を彷彿させるシーンが意図的にちょくちょく挟み込まれているのだが、それがイチイチ「現代ではこうなるんだよ」とアップデートされている。それ自体がテーマと濃密に絡み合う脚本は非常に完成度が高く、それまでのリアリティレベルをかなぐり捨ててまで盛り上げに盛り上げるクライマックスまで作品をどこまでも澱ませない。

演出も負けておらず、監督特有の美しい画と音のみで「語り切る」シーンが多く、大迫力のドッグファイトシーンとはまた別に、映画的な快感が随所に満ちたフィルムとなっている。*3
エリートパイロット「トップガン」自体が時代遅れになりつつある現代に、もはや化石のような主人公がガムシャラに「いまできる最善の事」を目指すストーリーはその一流の語り口によって、会社を追われ人生に疲れた中年男たる自分にも刺さる一作となった。

あまりに前作前提の作品であり、本作が単品の映画として今後語り継がれる作品となるかどうかはまだわからない。だが、本作のテーマは「いまできる最善の事をなせ」なのだ。それを最高の形でやり遂げたスタッフを称えたいし、いま色々見失っている中年同志はぜひ本作を観ていただきたい。出来れば音響のいい映画館で。

*1:オブリビオン - 映画と本とゲームで日記(はてダ移行版)

*2:おそらくシンガー監督作『ワルキューレ』でトムと知り合った彼は、最近ではトムのお気に入りとして『ミッション・インポッシブル』シリーズの監督を連続して務めている

*3:特に、一切のセリフを排したエピローグは特筆ものだろう

アライブフーン

ドライブゲームのチャンピオンが実際のドリフト競技に駆り出されて大活躍!という、やや実話風味のスポ根ドライブアクション映画。現代に蘇ったリアル『スターファイター*1ともいえる。
下山天監督は主にMV方面で活躍している人だそうで、その意味では中野裕之監督*2や、リドリー・スコット監督に近い作風といえるかもしれない。
本作『アライブフーン』においてもその手腕は遺憾なく発揮されており、頭文字Dの藤原拓海ばりに喋らない主人公の心情は、印象的なスローで切り取られる鋭い目線、暴力的なエキゾーストノート、そして劇伴によって雄弁に語られる。語られる内容自体は複雑ではないし、ストーリーも良くも悪くもベタベタの少年マンガなのだが、そのシンプルなストーリーだからこそ、日本映画らしからぬこの「徹底的にアクションと画で語る」作品となり得たのだと思う。
この作品の真の主役とも言えるカーアクションについても、本作では「CGナシの本物のドリフト」にこだわっており、「正直どうやってもハリウッド作品には勝てないCG」ではなく、「すでに世界トップレベルである本物のドリフト」をひたすら映し出すことで、アニメ以外の邦画では*3なかなか難しい「テンションの高い画面を維持」することに成功しており、日本発アクション映画の新たなスタンダードを示した作品ではないかと思う。もしかすると、『ウォーターボーイズ』のように、今後繰り返し繰り返し使われるフォーマットとなるかもしれない*4
惜しむらくは、せっかく「ゲームから現実へ」という『レディ・プレイヤー・ワン』とも戦えるテーマを持ちながら、日本のレースシーンと邦画の限界からか、「ゲームでは世界に羽ばたくけど現実は日本チャンピオン止まり」という微妙な地点をゴールとせざるを得なかった点で、本作がヒットしてハリウッドリメイクでもされたらあっけなく覆ってしまうであろうこのエンディングに、衰退国家日本の現実を突きつけられた気分になった。本作に惚れ込んだどこかの外国資本が、オリジナルと同じスタッフ、キャストでの続編制作に乗り出すことを期待したい。

*1:もしくはゲームの『イメージファイト

*2:なんか似たような帽子被ってるし

*3:おもに予算の関係で

*4:そのせいか、ウォーターボーイズフォーマットの『ガールズ&パンツァー』の映画にもよく似ている

犬王

これまで湯浅政明監督作品は、その凄さはわかるもののキャラクターに感情移入しかねる部分が常にあり、その意味では「not for me」な作家だと思うのだが、今回は少なくとも主人公の一人である友魚には感情移入でき、ラストまできちんと付き合うことができた。アニメーションとしてのクオリティは非常に高く、特に「当時の技術レベルで可能な範囲で行われるイリュージョン」を駆使した犬王のライブシーンはおそらくアニメ史上において空前かつ絶後だろうと思う。
シンプルながらも歴史モノ/伝奇モノとしての重層的な意味付けを孕んだストーリーもよくできており、セリフを抑えて音楽で「語る」演出スタイル*1はすぐれて映画的で、今後湯浅監督の代表作の一つとなるのは間違いないと思う。
いくつか気になる点もある。
 都の人々が「新しい」として熱狂する犬王や友有(友魚)の音楽が、現代の観客にはもはや「ド定番中のド定番」として知られるクイーンやディープ・パープル風で、その「新しさへの熱狂」が体感ではなく頭で理解する感じになってしまっている点。また、そのクイーンの伝記映画である近年のヒット作『ボヘミアン・ラプソディ』に作品構造が似通ってしまっていること、そしてその『ボヘミアン〜』と比べ、楽曲が当時の犬王本人の曲ではない*2ために「伝記映画」としての感動が弱くなってしまっていることは、傑作アニメーションとしての枠を超えて「映画」として広くアピールするにあたって、小さくはないハンデとなる要素だろう。
とはいえ、こんな尖った作品までが全国の映画館にかかること自体、日本のアニメーションの多様性を示す好例であり、テーマの普遍性からも、今後も長く愛される作品となることを願ってやまない。

*1:西久保瑞穂監督の『宮本武蔵 双剣に馳せる夢』を思い出させる(あっちは浪曲だが)

*2:そもそもが歴史からほぼ抹消された人物の話であるために楽曲が現存していないわけだから、仕方がないといえば仕方がないのだが

シン・ウルトラマン

これまで公開されてた予告では、特にウルトラに思い入れもない人間にはどうかな?と思っていたが、意外なほど楽しめた。
その理由の一つは、『シン・ゴジラ』と違ってこちらはけっこうユルい世界観であり、そのゆるさを自覚した上でそれが好きでたまらないオヤジ達(庵野秀明樋口真嗣)が公式のお墨付きを得て「俺ウルトラマン」を楽しくブンドドするする作品だったからで、その意味では『カメラを止めるな!』と同じく、作り手に共感・羨望されるタイプの映画なのではないだろうか。
またSFマニア的には、庵野氏の初監督作『トップをねらえ!』にも通じる、オールドSFテイストな大上段なテーマ設定も嬉しかった。「宇宙人が未熟な人類を助けてくれ」「地球人もその行為に報いるべく頑張る」クライマックスは、正直「でもやっぱりウルトラマン頼りにすぎるのでは?」という瑕疵はあるものの、人類の進化と善性を高らかに謳ったあの60年代*1へのノスタルジーの向け方として、圧倒的に正しい。
ただやはり、「叙事」だけで押し切ったシンゴジと違い、最終的に宇宙人の心情という「叙情」に振った本作は、そのテーマを扱うには庵野・樋口両氏のライブアクション演出の経験値が不足していることが、図らずも露呈してしまったと思う。有り体に言えば、「そんなに人間が好きになったのか、ウルトラマン」というセリフが出てくること自体、「言葉で説明しないと行動が意味不明に見える」ことへの言い訳に思える。それを観客に「感じさせて」初めてこのストーリーに共感し感動し得るのではないか。
特に脚本の庵野氏は宇宙人の方に感情移入しすぎて、ザラブ星人メフィラス星人ほどには「禍特対」を魅力的に描いていない。モンスターと人間との愛を突き詰めたギレルモ・デル・トロと比べるのは酷だが、その相互の信頼を脚本レベル、演出レベルで描き切れれば*2シンゴジを超える傑作ができたかもしれないのに…というないものねだりな感慨を持ってしまった。船頭多くして…ということもあるが、『のぼうの城』方式で犬童一心共同監督だったらワンチャンあったかもしれない。
今回はおそらく予算の都合で人類側のスーパーメカがなく、おかげで前述の「最終的にウルトラマン頼りな人類」になってしまったが、シリーズ化された場合どんな方向性でいくのか、なんだかんだ言ってプロデューサーとしての庵野氏の手腕*3に踊らされてしまう一作だった。

*1:これはもちろん、「戦後」ならではの気分であろう

*2:樋口氏の演出もそれをフォローできていない

*3:シンエヴァを経て、「作家」であることを辞めたようにも見える

国民クイズ

バブル時代の週刊モーニングに突如として現れた、日本版『未来世紀ブラジル』を標榜したと思しきカルト漫画、全4巻。
その蛮勇とも思える目標に対して、本作はかなりのところまで肉薄し得たのではないだろうか。
前半2巻はタイトルとなっている「国民クイズ」の内容と、それにまつわる人々の紹介でほぼ終わる。露悪趣味あふれる国営放送のCMは、本作が『未来世紀ブラジル』や『ロボコップ』などのディストピア未来を描いた傑作群に続くものである、との自覚的アピールでもあるのだろう。『翔んで埼玉』のような形での映画化が望まれる。
そして後半2巻、ここでストーリーは突然フルアクセルで走り出す。絵柄からは狂熱的な世界を感じるが、やはり原作者が別に立っているだけあってストーリーには常に底冷えするような怜悧さがあり、このへんもブラジルっぽさを感じる一因なのだろう。
東京が戦争状態になるクライマックスに、しかし国民が求めたのはクーデターではなく国民クイズだった。本作登場の3年前に大友克洋AKIRAで描いた「東京の戦争とクーデター」に対して苦い返歌を投げ返した本作のアクチュアリティは非凡なものだ。現代でこそ読みたい傑作。