バットマン・キリングジョーク

表題作を読了。
なるほど、こいつぁ映画『ダークナイト』版ジョーカーのオリジンかも知れん。バットマンブルース・ウェインについてはまったく掘り下げられていないところも同様。
ムーア版ジョーカーには、明確な出自が与えられている。彼は元々売れないコメディアンで、ジョーカーの芝居がかった台詞、おかしなポーズ、笑えないジョークはすべて、彼の職業的努力の賜物なのだ。そして彼は、理不尽な暴力に自らの人生が蹂躙されたとき、自ら進んで「狂う」ことを選択した*1
この「キリングジョーク」でジョーカーは、その狂気≒世界観を常識人代表たるゴードン本部長に強要する。誰彼構わず狂気を伝染させようとするノーラン版はまさに、そのスケールアップ版といえる*2
バートン版ジョーカーは堂々たるエンターテイナーで、ショーとしてのゴッサム滅亡を図った。ムーア/ノーラン版は違う。彼の稚拙なトークは、誰も笑わせられない。そして彼は、世界に「笑え」と強要する。笑わないヤツを殺す信長がバートン版ジョーカー、笑わないヤツを(狂わせて)笑わせる秀吉がムーア/ノーラン版ジョーカーともいえる*3
ムーア版とノーラン版…というか、「キリングジョーク」と『ダークナイト』の大きな違いは、その主題だ。
前者は「ジョーカーの心の闇」だが、後者はその出所がまったく不明*4なので、「ジョーカーの闇」は彼を狂気に追いやったはずの「理不尽な暴力」とイコールになっている。ここが、『ダークナイト』の現代性だろう。
理由を問うてもなにもない、ただ真っ黒な闇。ムーア版ジョーカーがふと見せた「正気であること」への憧憬は、ノーラン版には存在し得ない。もはや、戻ることなど絶対にないのだ。なるほど、9.11以後のアメリカの「気分」に、『ダークナイト』が存分に応えた理由が、ちょっとだけ理解できた気がする。

*1:「オメェもそのクチだろ!? でなきゃ、空飛びネズミの服なんか着てねぇだろ?」

*2:そしてなぜか、『ダークナイト』でゴードン本部長を陥れるのはトゥーフェイスの役目だったりする

*3:ということは、家康的ジョーカーも現れる余地がある。でもそれじゃまんまレクターか?

*4:「キリングジョーク」の「お好きな記憶をトッピングといきたいね!」という台詞に呼応するかのように