「高畑勲展ー日本のアニメーションに遺したもの」

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こちらは江戸城跡の国立新美術館での開催。平日の午後に鑑賞したが、客層の年齢は高く(女性比率も高い)、平日とは思えない混み具合に、一般的な「アニメファン」とは異なる高畑氏の国民的人気を可視化された感がある。

こちらも高畑氏の生い立ちから順にフィルモグラフィを辿る構成だが、東映動画入社に至るまでの部分は少なく、富野展との違いを感じさせる。その数少ない創作の「原点」、高畑監督最初のアニメーションへの興味は、ポール・グリモーの『やぶにらみの暴君』(1953年)にあった。当時東大仏文科の学生であった氏は、本作に「アニメーションが思想や社会を語ることができる可能性を感じた」という。

氏や氏のスタジオであるジブリが「なぜこの作品をいま世に送り出すのか?」を徹底的に考える、そのベースはまさにここにあったと思える。そして、それを黎明期の日本のアニメーションで実現するために、高畑氏は現場の徹底的な破壊と構築を必要としたのだろう。その実践の場が高畑勲の初監督作『太陽の王子ホルスの大冒険』(1968年)。

このホルス関連の展示は本当に衝撃的で、自分はここで徹底的にぶちのめされた。クリエイターとしての格の違いを見せつけられたと言ってもいい*1

ホルスで氏が行ったのは、東映長編の継承ではなく、まったく新しい「高畑流」の映画制作スタイルの確立だった。スタッフの奥山玲子氏(朝ドラ『なつぞら』の主人公のモデル)はそれまでの自由なアニメーション製作のスタイルと異なる、作品のすべてを監督がコントロールする本作の現場にたいそう戸惑ったそうだが、それを裏付ける膨大な資料からは、キャラクターデザインからテーマから脚本からセリフから観客のテンションコントロールから音楽から作画から撮影に至るまで、本当にあらゆるセクションにこれまでのアニメーション作りの否定と、とことん理詰めの工学的な高畑理論に合致する新しいスタイルの創作とを、高畑監督が要求したことが見て取れる。相手が先輩だろうが大御所だろうがお構いなし、すべてを理屈でねじ伏せていく氏の監督術は、氏の柔和な性格にも緩和されず現場に巨大な反発を招いたようで、氏のオーダーに対してスタッフからの返答が書かれたメモは「辛辣」といって過言ではないものだった。それはそうだろう、いくつもの作品で場数を踏んだプロのメソッドをあてにせず、見たこともないやり方を押し付けてくる新人監督に対しては、本能的な嫌悪や、頭でっかちのシロートさんへの揶揄などがあって当たり前だ。その反発に対して、高畑氏はやはり理論で圧倒する道を選んだと思われ、それは奇妙にバランスを欠いた、荒削りな完成作品を見ればある程度理解できるだろう。

結果として、ホルスの興行成績は振るわなかったが、彼の才能を見込んだ人々と手がけた『アルプスの少女ハイジ』(1974年)と、その商業的な成功に繋がってゆく。

過酷なTVシリーズを経たことで、理論に実践からのフィードバックが加わり、氏は『赤毛のアン』(1979年)の頃にはすでに巨匠としての風格さえ備える演出家となった。大画面に展開するアンのOP映像はとてもエモーショナルで、「理屈で感情を支配する」高畑マジックの最初のピークと言っていいだろう。

以降の作品の展示には、いずれも作品的な見所はあっても、その作り方の面ではあまり変化を感じなかった。遺作となった『かぐや姫の物語』(2013年)にしても、氏が東映動画入社間もなくの時期に宿題として与えられたという内田吐夢版「竹取物語」企画*2を、当時できなかった理詰めの演出で完成させたものだ。

自分はこれまで高畑氏を「東映長編の最後の継承者」のように捉えて、ジブリもその延長線上と考えていたが、宮崎駿はともかく、高畑勲においてはその解釈は多分に誤りであると認識させられた。スタッフへの要求水準の異常な高さから「高畑勲の通った後はペンペン草も生えない」とまでいわれた氏だが、それ以前に「高畑勲は道無きところに道を通す」人物だった。実写と違い映像のすべてをコントロールできるアニメというメディアを「映画」とすることに成功した氏の、その狂的なまでの「理論化」へのこだわりを可視化したこの展覧会は、クリエイターにとって毒薬にも特効薬にもなりうる。自分はしばらく悪酔いしてしまったが、特に「集団を率いて作品を創るクリエイター」には強くお勧めしておきたい。こちらも、今後巡回展が予定されているようだ。

*1:ちなみに、本作の解説で若干期待していた白土三平からの影響(https://sifi-tzk.hatenadiary.jp/entry/20171007/p3)については触れられていなかったのは残念

*2:興味のなかった原作を徹底的に読み込み、それを映画とするに値するテーマを掴んだところで、制作体制から演出に至るまでの改革の構想だけで放置されていた