レディ・プレイヤー1

ゲームやSFの界隈では邦訳前から結構話題になっていた小説『ゲーム・ウォーズ』がこのVR時代に満を持して映画化。
我々アラフォー、アラフィフにとってのオトナ帝国といえるVR世界を舞台にした、ウェルメイドな冒険活劇となっている。
本作の主要登場人物たちは若者なのだが、彼らはあくまでストーリーを進めるためのコマであって、盤面を司る設計者≒原作者世代のオタクネタが豊富にぶち込まれ、彼らお行儀のいい若者たちがその前世代のネタを学び、継承するというオタクドリームの極致みたいなストーリーがスクリーンに展開される。その意味では、本邦の福井晴敏作品にも似ている。
ここで気をつけなければならないのは、本作の監督をスティーブン・スピルバーグが務めていることだ。原作者世代のさらに上、頻出するオタクネタの生みの親の一人でもあるスピルバーグの登板によって、この映画版は奇妙なネジレを抱え込むこととなった。
VR版『マリオカート』か『ロードラッシュ』かというレースシーンにはなぜか『キングコング』と『フレンチ・コネクション』が引用され、寸分違わぬカメラワークで再現されたオーバールックホテルは不自然なほどたっぷりと尺が取られ、なんだか見慣れない感じのガンダムと違ってメカゴジラには伊福部劇伴のオマケつき、そしてくどいほどくり返される「ローズバット(バラのつぼみ)」。当年71歳のスピルバーグは自身のクラシック映画偏愛を80'sサブカル偏愛にまみれた原作に上乗せしており、それによって作品の印象は散漫になり、またテーマの不徹底にも繋がっていると感じた。
異世界への冒険であったり、異世界からの訪問者によって主人公が成長するお話は枚挙にいとまがない。『指輪物語』しかり、『ネバーエンディングストーリー』しかり、『2001年』すらも人類にまで拡張された同テーマの物語といえ、スピルバーグ自身の『E.T.』や『フック』などもその系譜にある。
上記のアップライジングと異なり、最初からウェルメイドな娯楽大作として構想されたと思しき*1本作は、しかしマネーメイキングディレクターであると同時に社会派監督の顔も併せ持つスピルバーグが手掛けたことによって、ポップなオタク世界に古風な物語構造と、そのやはりクラシカルな倫理観が注入される結果となった。
本作では、クソったれな現実*2を逃避して、まるでハリー・ポッターのようにチート能力で俺TSUEEE!できるVR世界で、典型的な「行きて帰りし物語」が展開される。この「帰りし」の部分がクセモノで、本作はこれほどの大仕掛けが用意された割には、例えば『パンズ・ラビリンス』や『ローズ・イン・タイドランド』のような裏切りや、『マトリックス』のような価値転倒が用意されるわけではない。これは図らずもスピルバーグ本人の『マイノリティ・リポート』や『A.I.』とも共通する、「作家の持つヒューマニズムがシリアスなSFマインドとコンフリクトを起こす」問題といえる。本作で描かれる「ゲームは1日1時間」ならぬ「ゲームは週に5日間」という解決策は、ジュブナイルSFとして『未知との遭遇』や『E.T.』と同じ「共存」のスピルバーグ的落としどころなのだろうが、これは「VR時代の社会システム」ではなく「現代のゲームとの付き合い方」レベルにとどまっており、そこにSF的な感動はない。例えばいまのリドリー・スコットだったら、「俺はVR世界で生きるぜ!あばよ現実!」といったアナーキーなオチを持ってきたのではないだろうか、などと考えてしまった。「面白いけど、それ以上じゃない」という点で、昨今のアメコミ映画と同じくイマ風の映画といえる。

*1:スピルバーグが娯楽アクションとシリアスなドラマをほぼ同時に撮るパターンは今回も踏襲されており、今回ペアとなった映画は『ペンタゴン・ペーパーズ/最高機密文書』。

*2:クズ男と手を切れない叔母と彼女に依存せざるを得ない自分

パシフィック・リム:アップライジング

前作『パシフィック・リム』は2013年の映画だが、すでに現代のカルト・クラシックの地位を占めている。いまやオスカー監督となったギレルモ・デル・トロの爆発するオタク趣味と溢れるビジュアルイメージ、そしていつもと同じくシビアなドラマツルギーが、もはやその総本山である日本のアニメですらノスタルジーの対象と捉えていた「巨大ロボット活劇」を現代に向けた作品として造り変えることに成功していた。
そして、主に中国市場での大好評を受けて5年後に製作された本作は残念ながら、前作とは打って変わってウェルメイドなジャンルムービーに堕してしまった。
いま思えば、前作は「怪獣映画やロボットアニメでよく見る画」をどうすればリアルな実写作品として再構築できるか、を世界設定から脚本から演出までのあらゆるレベルから裏付けを試み、豊富なアイデアのつるべ打ちによってそれを力技で実現させていた。これは自らの企画に巨額資金を動員でき、脚本と監督を兼任できるハリウッドでもごく一部の、環境に恵まれた天才にしか許されない作り方だ。
あらゆるレベルで有機的に結合されたアイデアの塊(≒監督個人の世界観の発露)であった前作と異なり、本作は圧倒的にアイデアが足りていないのみならず、その内的な必然的にも乏しい。
前作はある種のバディムービーとして、設定レベルでは「ドリフト」、脚本レベルでは兄弟や親子の絆、演出レベルでは2人並んだコクピットのビジュアルによって「イェーガー乗り同士の信頼関係」が入念に表現されており、それはラストシーンの「キスしない2人」(≒愛情ではなく信頼で結ばれている)まで徹底され、テーマが昇華される構造となっている。
本作にはそういった深みはない。逐次的に出来事が起きるが、テーマ的な必然性に乏しく、ドラマは一向に深まらない。
また、前作ファンにサプライズを与えるためだろうが、前作の登場人物の扱いのぞんざいさには目を疑った。これ、本当にデル・トロが許可した脚本なのだろうか?*1これは単に加点できない、ではなく明らかな減点要因。続々登場する中国人俳優*2も含め新キャラクターにも魅力が乏しく、本当に前作の続編である以外のウリが見つからない。
中国資本のおかげか、はたまたCG技術のコモディティ化のおかげによってか、ロボバトルはより派手になって増量されているので、そこだけで楽しめる人なら映画館で観るのもいいだろう。個人的な印象としては、「ディズニーのアニメ映画の続編としてひっそり発売される廉価なセルスルービデオ」のような作品だった。

*1:一応、前作のギレルモ・デル・トロ監督は今回プロデューサーとして本作に参加している

*2:前作の日本推しはカイジュウと巨大ロボへのリスペクトからだが、本作の中国推しは出資が中華企業だから、なのが物悲しい

ブレードランナー 2049

伝説的なSF映画の続編やらリブートやらが連続する昨今、遂にというかとうとうというかブレランにまでも続編が公開。これの予告がかかっていた頃の新宿歌舞伎町では、ビルの垂れ幕にエイリアン(コヴェナント)とブレードランナー(2049)、その向こうから巨大なゴジラヘッドが顔をのぞかせるという、ある意味日米の映画企画の保守性を強く感じさせる画ヅラが出現し、続編への期待に水を差す役割を果たしていた。
とはいえ、ファンを30年以上やっているとそのシド・ミードのビジュアルやヴァンゲリスの手がけた音楽などに接しただけで、無条件に興奮させられてしまうのも事実で、これ以上ないくらいの期待と不安を携えながら劇場に向かった次第。
期待は裏切られなかった。が、不安が的中もした。以下、めんどくさいSFオタクの繰り言だと思って読んでください(前使ったなこれ)。
まず、ブレードランナーが提示し、世界中のクリエイターに絶大な影響を及ぼした独特の世界観とビジュアルは正しく継承され、逸脱の発生しない範囲でアップデートされている。
ドゥニ・ヴィルヌーヴの「モノ」へのフェティッシュリドリー・スコットのそれと似た資質を感じさせ、彼を起用したスコット翁の目利きの確かさも感じさせる。
作りこまれたビジュアルはヴィルヌーヴ流の計算で、たっぷりと尺を取って描写される。当然だ。押井守も指摘するように、ブレードランナーはキャラや物語ではなく世界観を提示する映画だ。その続編を任されたヴィルヌーヴは、正しくその意味を理解し、ノーラン的な意味は希薄な世界を、興行的には致命的なほどのゆったりしたカメラワークで嘗め回す。
この時点で、「続編」としての本作が越えなければいけないハードルのほとんどはクリアされていると言っていい。
音楽に関しては、ヴァンゲリスの印象的なフレーズがサンプリングされ、これも今風なリモート・コントロールサウンドに仕立てられている。個人的には、ここはちょっと残念。
とはいえ、セリフや音響効果も含む表現のレベルにおいては本作は本当に素晴らしい。ブレランの続編という、かつてないプレッシャーの中でこの仕事をやりおおせたスタッフには称賛を送りたい。
問題は、そこで描かれるストーリーだ。
前作から30年以上を経て、「人間とレプリカント」の境界は大きく変化した。現代人の目から見て、細胞レベルで人間を模したレプリカントはもはや「人間」として捉えられるだろう。
その現実側の価値観の変化を反映し、本作では「下層の人間と下層のレプリカント」「上層の人間と上層のレプリカント」という、いわば2重のレイヤーによる階級社会を現出させている。
そして、前作のレプリカントに当たる「より下等な人間モドキ」として、本作ではAIが登場する。下層レプリカントである主人公のパートナーとなる彼女は、つまり前作のデッカードに対するレプリカント・レイチェルと同じ立ち位置に置かれてはいるものの、そこから肉体を獲得するであろう彼女自身のストーリーには発展しない*1
本作はあくまで、前作が残した「レプリカントは人間か?」に決着をつけるためのストーリーに終始する。それ自体はいい。しかしそのために、多義的な解釈を含有した前作の豊饒さを、本作は削ぎ落した。本作は、前作の残したうちのひとつの可能性に従った、ひとつのストーリーとして提示されている。
古いファンである自分がどうにも本作を諸手を挙げて受け入れられないのはこの点だ。これはたぶんこの先、本作「2049」以外の、前作の続編が登場すれば解消される問題なのだとは思う。非常にしみったれた話ではあるが、「この続編によって前作のストーリーが再定義されてしまう」こと自体が、もうどうにも自分の中で折り合いがつかないのだからしょうがない。
自分が『ブレードランナー』という作品にこれほどまでの思い入れを持っていたのか、と改めて気づかせてくれた作品でもある。
というわけで、映画としての本作には「暗い」「売れない」以外の欠点はほぼない。知的であるがゆえに熱量が低く、前作クライマックスのVSプリスやVSバッティ戦のようなアクション映画的な興奮は本作には求めえない*2とはいえ、「SF映画」としての風格は本当に素晴らしく、名作の続編としても、単一の作品としても堂々たるものだ。映画を映画館で観ることの必然性に満ちた一作でもある*3
願わくば、本作の興行的失敗がこういった「重量級」の作品への悪影響を与えないことを祈る。そして、それは「本作以外のブレードランナーの可能性」にもつながると信じたい。

*1:それをやった物語が『ディアスポラ』や『ゼーガペイン』なのだろう

*2:アクションシーン自体はあるが、びっくりするほど興奮はない

*3:ちなみに、仕事帰りに歌舞伎町東宝でこの映画を見た後、シアター出口には雨が降っており、その歌舞伎町のネオンは完全にブレードランナーの世界そのものだった。

バリー・シール/アメリカをはめた男

たまたま時間が合ったという理由だけでほぼなんの事前情報も仕入れず鑑賞。こういう伝記映画にしては異常にテンポいいなーと思ったら監督が『ボーン・アイデンティティー』のダグ・リーマン(「ライマン」表記問題どうなった?)だった。
というわけで本作、『オール・ユー・ニード・イズ・キル』に続くトム・クルーズダグ・リーマンのコンビ作なのだが、どうもダグ・リーマンは役者としてのトムクルの特徴を「なんも考えてなさそうなバカっぽい笑顔」と捉えているフシがある。パイロットの才能と人並みの欲と家族への愛情はあるがそれ以外はからっきしなある意味「普通の男」の異常な人生は、そのときどきで起きるドラマのすべてを「トム・クルーズのよくわかってない曖昧な笑顔」だけで無理やり先に進め、ある意味必然的にそれが破綻することで予定調和のように幕を閉じる。本作、副題が「アメリカをはめた男」なのだが、どちらかというと「アメリカをあんまり考えずにうっかりはめてしまって、おかげではめられてしまった男」というひどくカッコ悪い話でもあるのだった。その「カッコ悪い話」をある種のサクセスストーリー的に描く演出の妙は楽しく、これが実話!?と思えるほど杜撰な政府の対応などもカリカチュアが入っている*1のだろうが、笑顔の曖昧なバリー・シール氏がなにかの目的に邁進したわけでもないのと同様に、楽しく演出された本作がなにかテーマ的なものを語っていたか、というと若干の疑問符が付く。あくまで楽しいブラック・コメディとして観るのがお勧め。

*1:彼を捕えようとしたDEA、ATF、FBI、CIAが一堂に会するシーンはさすがに笑わされた。コントか!

ジョン・ウィック

「TZKさんジョン・ウィック観てないんですか!?それ人としてどうなんですか!?」と若人にたしなめられたので鑑賞。話題になってるのは知ってるけど、自分が中年になってからというものアクションだけの作品にはなかなか食指が動かなくなっているのも事実。
確かにアクションはなかなか面白い。独特の接近戦によるガンアクションや、自分が防弾チョッキを着ているからか確実に頭を吹っ飛ばす倫理観のマヒした世界観は日本のマンガやゲームっぽく、特に日本でヒットするのも頷ける。アジア映画のようないまいちすっきりしないストーリーも、怪優ウィレム・デフォーの敵とも味方とも読めないキャラクターをツイストに使うなど見せ方でうまく工夫している。ただ、個人的にはキアヌが電話帳で人をぶん殴る『フェイクシティ』がけっこう好きだったので、殺人マシーンでありつつも中身は結構普通の人であるジョン・ウィックには物足りなさを覚えてしまった。続編で電話帳を武器にしてくれたら(俺が)もっと楽しめる映画になるのではないだろうか。