ジョーカー

「ジョーカー誕生秘話をスピンオフで映画化」と聞いて最初に思い浮かべたのはアラン・ムーアの手になる「キリングジョーク」*1で、まぁあんな感じの作品なんだろう、金獅子賞獲ったってんなら結構シリアスに作られてそうだな…程度の認識で鑑賞。結果、かなりの衝撃を受けた。

以下ネタバレ全開で、自分の受けた衝撃について書いておきたい。

まず本作で驚かされるのは、「アーカム精神病院に入れられる狂人」という設定であるジョーカーを、ジョーカーになる以前からの「精神障害者」として描いていることだ。それにより、本作はコミック的に社会から「切断」された悪役を、「現代のリアルな個人」として社会に再配置し直しており、この時点で「キリングジョーク」の「個人的な悲劇により精神が壊れた」ジョーカーとは異なる物語であることが宣言される。

ゴッサム/ニューヨークの格差社会において、その最下層のさらに被差別階級である主人公アーサーの描写は執拗かつ救いがなく、一見救いに思われた彼のささやかな楽しみさえ、いつしか反転して彼を苦しめる側に回る。徹底して主人公に寄り添うカメラは、その辛く苦しい現実をひたすら写し出し、観客の心を寒からしめる。コミック的なジョーカーとバットマンの因縁「私が君を作った。だが君が私を作ったのだ」もさらにもう一捻り加えられた挙句、もっと過酷な現実に回収されてしまう。こちらも「コミック的ステレオタイプな設定」を解体無効化し、現代の現実世界を描こうとする制作者の意図を強く感じさせる。

徹底したリアリズムとともにもう一つ、「偶然性の排除」も本作の特徴といえる。どんな悲劇も、起きるべくして起きるのだ。それは主人公の障害でさえも、虐待による器質的な原因を疑わせる展開として発揮され、ここで『ダークナイト』の「理由を求め得ない絶対悪」としてのジョーカーも否定される。『ダークナイト』の「2008年のリアル」は過去のものとなり、「2019年のリアル」のなかば必然として、ジョーカーは格差と差別のシンボルとして『タクシードライバー』的なカリスマとして再生する*2

ホワイトルームの流れるゴッサムのシーンはまさに現在の香港を強く思い出させ、徹底的に「いま、ここ」にこだわった作品のみが持ち得る奇跡的な現代とのシンクロに大いに心を震わさせられた。

「ここまでリアルで陰鬱な物語がアメコミ原作である必要があるのか?」という意見も聞かれたが、本作の奇妙にカタルシスのあるクライマックスを観て、これはアメコミ原作でなければ許されなかったエンディングだと感じた。

このジョーカーは、この先「みんなの知っているあのジョーカー」になる。そんなことは、この映画を観る前から観客にはわかっていたはずだ。終わり方が決まっているからこそ、「そのエンディングでしか表現できない尖ったテーマ」を、本作のスタッフは選ぶことができたのだろう。いわば、アメコミ原作であることを隠れ蓑に、彼らはインモラルな、もっと言えば反社会的とさえいえる表現をしれっとやってのけたのだ。

とてつもなく危険なメッセージを社会に振り撒きかねない映画だが、コミックという枠組みを巧みにまとうことで初めて生まれえた「現代」を抉り出す傑作だと思う。特に35歳以上には強くお勧めしたい。

*1:ダークナイト』公開の時に読んだ感想 https://sifi-tzk.hatenadiary.jp/entry/20080927/p2

*2:この重要なターニングポイントを握る人物を『タクシードライバー』の主人公を演じたデニーロにキャスティングした制作陣の確信犯ぶりも凄い