かぐや姫の物語

いまはなき東急文化会館で、高畑勲監督の前作『ホーホケキョ となりの山田くん』を観たのは、まだ20世紀、自分もまだ20代の頃だった。当時の高畑監督は還暦をすぎ、映画監督として円熟した時期にあったと言っていいだろう。その力の抜けた作風は、東急文化会館から徒歩5分の会社で連日徹夜でギャルゲーを作っていた当時の自分にとって、なんだかひどくヌルい、年寄りの繰り言のように感じられたものだ。
そして今年、これはもう遺作になることは確定であろう、最新作である本作を観た。ある意味、本作は高畑監督にとっての集大成、自身にとって初の、これまでの自作を振り返る映画なのではないか、と感じた。
高畑勲の幻の企画に『長くつしたのピッピ』のアニメ化がある。
いうまでもなく児童文学の名作だが、いきなりやってきた自然児*1であるピッピが周囲の人を巻き込んで色々な騒動を起こす、言ってみれば「ドラえもん」や「ど根性ガエル」の原型みたいな話だ。そしてこの企画が頓挫したあと、高畑・宮崎コンビはその作れなかった「ピッピ」の生まれ変わりのような作品『パンダコパンダ』を生み出した。
で、この「パンコパ」は宮崎駿が珍しく脚本を手がけ、演出を高畑勲が行う、といういま考えると不思議な布陣で製作されている。つまり、「パンコパ」におけるぶっ飛んだ基本設定(何の脈絡もなくパンダが居候してくるとか、一夜にして町が水没するとか)は宮崎の、それをリアルな出来事として着地させたのは高畑の、それぞれの仕事と見ていいだろう。
ここに、後にスタジオジブリを共同で立ち上げるも、作風において基本的に異なる二人の作家性が見て取れる。
宮崎駿は想像力に優れたアニメーターであり、ファンタジーを好む理想家だ。彼の作る世界はオリジナリティに溢れ、エモーション*2がキャラクターと作劇を支配している。それは、映画に理想を見たい*3観客にヒットし、ほどなく、彼は日本でもっとも金を稼ぐ監督となった。
対する高畑勲はどうか。彼はファンタジーを描かない。キャラクターにも理想を見ない。あるのはただ、現実と人間のみだ。彼はもうマンガチックとしか言いようがない「パンコパ」の世界を、現実にありうる可能性として演出している。
ジブリに移ってからの高畑勲は、自らの企画を監督できるようになったからか、その作家性をより際立たせていく。
世界はどんどん現実に近づき、登場するキャラクターや社会はどんどん現代に近づく。『火垂るの墓』『おもひでぽろぽろ』『平成狸合戦ぽんぽこ』。もちろん『山田くん』もその延長線上にある。
そして本作。
自分が『山田くん』に感じた、「現代を描くにしてはずいぶんヌルい」という感想は、本作では覆された。ここ三作続いた「現代」を描くことを放棄し、ファンタジー世界に現代人を放り込む『火垂るの墓』のメソッドを踏襲、テーマはこれまで何度も手がけた「自然と人間の共存」、表現には『山田くん』をさらに進化させた手描き風、とまさに集大成的な作品となっている。
現代において「ピッピ」が受け入れられるのはそれが童話だからで、この『かぐや姫』の野生派ヒロインは封建日本において徹底的に抑圧される。高畑がプロデュースした宮崎映画『風の谷のナウシカ』の姫はその野趣を残したまま、民に慕われていたが、同じ「虫めづる姫君」でもこちらの姫は都会の価値観に反逆するアウトローとして描かれる。
そして、(原作どおりといえば原作どおりなのだが)本当に唐突に、姫はその地を追放される。感情的には世界とかぐや、どちらがもう一方を拒絶したかに解釈の余地はあるが、結果として断絶を描いてこの物語は終わる。残された希望は、幼く生命に満ち溢れた*4「あの頃」の記憶だ。
twitterで「本作には新しさがない」という指摘を@shimaguniyamatoさんがしていたが、それも道理、まさしく「過去」を総括し、決別するための作品ではないかとさえ思える。
これを、高畑勲が遺作に刻んだ最後のメッセージと見るかどうかで、本作の位置づけはガラッと変わってくるのだろう。年齢的には相当厳しいが、「アニメの鬼」高畑勲が次になにを手がけるのか、趣味の世界に引きこもった宮崎駿以上に気になる作品だった。

*1:これも監督の代表作であるハイジと同様に

*2:animationはmotion=動きによって生命を感じさせる芸術

*3:もしくは、アニメに理想以外を見たくない

*4:アニメーション表現がエモーションを喚起していた