ソーシャル・ネットワーク

デビッド・フィンチャーの『ファイト・クラブ』は、現代における「リアル」が、カネやモノでは実感できないことを暴いた傑作だった。互いの体を拳で痛めつけることでしか「生」を実感できないホモソーシャルな世界を、当時のフィンチャーは「現代」のカリカチュアとして描いた。

近作の『ゾディアック』では(『殺人の追憶』の影響はあるにしても)、タイラー・ダーデンを筆頭とするフィンチャー流のシンボリックなキャラクター造形を封印し、「時代の空気」そのものをフィルムに焼き付けるドキュメンタリータッチの演出を見せ、フィンチャー映画作家としての成熟を感じさせた。

そして、『ソーシャル・ネットワーク』。
本作は『ファイト・クラブ』の「現代のリアル」と、『ゾディアック』の「時代の空気」をともに継承、昇華し、「現代の空気」を映画に切り取ることに成功している。ラストシーン、リロードを続けるマークの姿は現代の我々そのもので、『ゾディアック』よりさらに、「いまここ」に肉薄する映画となっている。

ラストと対になっているファーストシーンで、主人公マーク・ザッカーバーグがいかに非コミュでKYなギーク野郎であるかがイヤと言うほど観客に叩き込まれるが、友達もホンの数人しかおらず*1人間性に欠け、肉体的にも見劣りしまくりなマークは、しかし旧来型コミュ巧者代表であるウィンクルボス兄弟をはるかに置いて、怒濤の勢いで成功への階段を駆け上がる。

このあたりのフィンチャーの演出は絶妙で、マッチョで力強く、ガタイが大きく、血筋がよく、ルールを重んじ、伝統ある「クラブ」の価値を知悉する彼らを、監督は古くさく、せせこましく、愚鈍なものとして扱う。マシンガンのように持論を一方的にまくし立て、思いついたら即キーボードに向かうマークやショーン*2に対するドライブ感溢れる演出に比べ、鷹揚に構え、根回しし、既存の組織とその権威をちらつかせる彼らは、「古きアメリカ」の代表として矮小化されている。

その最たるシーンが、彼らの晴れ舞台であろうイギリスでのボートレースで、ここでフィンチャーは悪趣味にも、兄弟の檜舞台をミニチュア風の撮影で演出し、彼らを狭い世界に閉じこめる。実際にイギリスに行った彼らより、アメリカで個室にこもるマークのほうが「世界」にリーチしていたのだ、という皮肉が、映像で強調される。

コミュニティサイトの話だが、「コミュニケーション最高!」という映画ではない。早口で喋り、思い付いたら作り、興味のない会話は全スルーする「持たざる行動派」が、「あらゆるものを持てる知的エリート」を凌駕する時代。個人主義が進みに進んだ世界で、非コミュこそが世界を手にする。その時代のダイナミズムを、この作品は見事切り取ったと思う。傑作。

*1:その数人にとってはマークは「数多い友人の一人」でしかない、というあたりがすごくリアルだ

*2:生まれて初めて自分と同じ価値観を持つ彼と会ったマークが、それまで見せなかった朗らかな笑顔を見せるのが泣ける