ぶつ森

コスティキャンのゲーム論を再読して、ぶつ森のイメージが少々変わった気がする。
64版の『どうぶつの森』が出た当初、俺周辺での評価は「ネトゲをやるつもりのない任天堂が出した、MMO*1の面白さ(の一部)を抽出したゲーム」だった。
が、あの『シムシティ』にすら<目的>を与えた(「ゲーム」化した)任天堂にしては、ぶつ森の「<目的>性の排除」はおそろしくドラスティックな路線変更だ。ポケモン同様、自己目的化しやすい「収集」要素は特に初代に強いものの、オリジナル『シムシティ』にすらあった、「最終的な成功イメージ(≒<目的>のモデル例)の提示」すら、ぶつ森においては次第に行われなくなってゆく。
そして「収集」対象としてもっとも訴求力が(商品的フックでも)あった「ファミコン」がなくなったDS版。ついに「収集」すら(無意識的にも)強要されなくなったぶつ森は、DSにおいて初めて市場とマッチし、爆発的なヒットとなった。
面白いのは、DS版はネットゲームでもあるのだが、そこにあるのは初代が(たぶん)断念した、MMORPG的な「コミュニケーションの楽しさ」よりさらに(マズロー的に)深入りした、「自己承認願望の充足」だ。任天堂はつまり、互いをほめ合う「仲良し女学生」コミュ*2を20・30代OLにまで肯定してやったのだ。それは売れるわ。娘が夜泣きしたので唐突に終わり。

*1:ていうかUO。現在のUOぶつ森のプレイヤー層もかなり近そうだ

*2:最近は若い男性リーマンにまで「俺たちイケてるよな!」コミュが広がっているそうだが…。