インターステラー

最初に宣言しとくと、自分はこの映画があまり好きではない。
いや、こういう逃げっぽい書き方は良くない。はっきり書くと、本作『インターステラー』は「俺の嫌いなタイプのSF」だった。
以下、おかしなドグマに囚われた狭量な原理主義者による戯言だと思って読んでください。
ダークナイトは現代の寓話として最高だった。インセプションは現代的でなく、ライジングに至っては、ノーランのダークナイトサーガ自体の脆弱さが露呈していた。
インセプションの感想で、ノーランはSFに興味がないだろうと書いた。本作鑑賞以後、それは自分の中で確信に変わった。
ある種SFのコア、SFを他の文学ジャンルとを決定的に差別化している、ある要素を欠いている。
それは、宇宙や未来などの隔絶された世界を描くことで、「現代の人間の価値観を超越した視点を提供し、それを揺るがす」機能だ。
すくなくとも自分は、それがSFをSFたらしめる最大の要素だと考えている。『2001年』における任務を優先して人間を殺すコンピューターや、『ブレードランナー』における人間とレプリカントの見分けのつかなさ、ただのパニック映画だと酷評されることもある『ゼロ・グラビティ』でも、自明と思われていた「重力」の自明でなさを描くことによって、宇宙SFでしか勝ち得ない感動を与えてくれた。
翻って、本作『インターステラー』。クソリアリズムが持ち味のノーランがキップ・ソーンまで持ち出して*1描く宇宙像は最新科学に基づく刺激に溢れた映像となっており、SF小説ならぬSF映画ならではの*2魅力があるのだが、ことストーリー面においては、これだけ長い(時系列的にも)映画にもかかわらず、ものすごく小さい世界に終始する。
その圧巻はビジュアルでは登場しない5次元人で、彼らは人類の未来の姿であることが仄めかされている。徹頭徹尾、人間が、人間だけが、困難を克服し、宇宙と時間を統べる存在となるのだ。そこには、宇宙のスケールや未知の知性に対する畏怖も、時間のスケールに対する(死を媒介とした)諦念も存在しない。それは神の視点だ。そしてその神は、おそろしく現代の(意地悪く言ってしまえばたかだかここ2000年西欧圏で流行っただけの)キリスト教の神によく似ている。
しかし、これは当のSF界においても今日的なテーマだ。『エンダーのゲーム』のオースン・スコット・カードマイク・レズニック、うっすらとはデイヴィッド・ブリンにも見られる既存の宗教、モルモン教ユダヤ教などの陰が、作品テーマ自体をも規定する作品群。
その系列に新たに加わったクリストファー・ノーランは、『2001年』におけるクラークの楽観主義を独自解釈し、SFを狭い価値観に封じ込めてしまった。アポロを陰謀論として扱う世界を描くことで「外の世界へのチャレンジ」を推奨する前向きな映画ながら、その前向きさが既存の価値観の範囲に留まり、かえって「チャレンジの限界」を示してしまっているという点で、「いまのアメリカSF」を非常に高い精度で反映した映画といえるのではないかと思う。

*1:本当は逆で、キップ・ソーンらの企画にノーランが乗った形

*2:とはいえ、単にSF小説のビジョンの映像化という意味なら、例えば星野之宣の『2001夜物語』などですでに見慣れた風景ともいえるのだが