マラドーナ

サッカーのサの字も知らんのに予習ナシの予備知識ゼロで観たクストリッツァの『マラドーナ』の、そのあまりに政治的な内容に驚く。

元サッカー選手マラドーナは現在、監督業とともに、TVの司会者として、またそれ以上に、「生ける伝説的人物」として、各方面で活動している。
政治活動も旺盛で、南米各地の反米集会に参加し、反ブッシュ(当時)の演説をぶつ。キューバカストロゲバラのタトゥーを体に施すほど彼らに心酔し、カストロからは直に勲章を受け取ってさえいる。

アメリカ、イギリス資本の入っていないこの映画、西側世界の我々には見えづらい、南米諸国の反米、反グローバリゼーションの高まりが平然と映し出されるのが衝撃的だ。そして、南米の政治指導者たちは「フォークランド紛争の仇をサッカーで討った」英雄マラドーナを引っ張り出し、彼もその期待に十分に応えている。そう、ワールドカップ「アルゼンチン vs イングランド」戦は、フォークランドの復讐戦でもあったのだ。

マラドーナの言葉は独善的で偏っており、知性的でもないが、クストリッツァの立ち位置はマラドーナのカリスマと、カリスマの危うさの双方を支持していて複雑だ。クストリッツァ反グローバリゼーションを主張しているが、その点でマラドーナに共感はしていても、安易に賛同はしていない。

共通するのは怒りだ。「カネのために戦争するヤツらは世界に不要だ」「カネで一つになるような世界なら入れてもらわないで結構」。まさに、革命家にして芸術家の思想。
監督自身が出ずっぱりなトコも含め、クストリッツァの『SUPER8』のマラドーナ版、とも言える。『SUPER8』のラスト、空爆で破壊されたベオグラードの橋は再建されて『マラドーナ』にも登場。その年月の重みは、ドキュメンタリーならでは。

グローバリゼーションを産みだし、その波に殉じていくアメリカに、「それでも、アメリカの魂は受け継がれる」と諭した『グラン・トリノ』を、「アメリカの精神など滅びよ!」とばかりに正面からぶっ潰すかのよーな映画だった。「マラドーナ教」のコミカルなシーンもたびたび挿入され、娯楽性もあるが、95分とは思えぬヘビーな一本。


ひさびさにクストリッツァにぶん殴られた気分で外に出たら雪だった。ビル1階のアニメイトの前で、どうみても腐女子がゴソゴソと流行りモノを物色する光景は、もはやクストリッツァ的ブラックユーモアにしか見えなかったよ。