ダークナイト

なんという暗黒映画*1

これは、「悪」についての映画だ。
現代における悪とはなにか? 前作『バットマン・ビギンズ』で渡辺謙のへなちょこな悪役を出してしまったノーラン監督は、その反省からか今回、「正義」を描くことを放棄し、徹底して悪の側に寄り添っている。


まず舞台。近未来的なゴッサム・シティは、単なる現代の街並となった。
現代の、そのへんで行われる(「いま、ここ」の)犯罪が冒頭から展開される。そして、これが『ヒート』ではない、と観客に叩き込むのは今回の主役(だよね?)たるジョーカーの役目だ。
前作同様、あくまでリアリズムで語るノーランは、ピエロのメイクをしたジョーカーを文字通り「口の裂けた人」として描く。トゥーフェイスもしかり。「あーゆー顔の人」として描いている。その即物的なアプローチが、今回は恐いほどの成果を上げている*2


今回のレジャー=ジョーカーは、ニコルソン=ジョーカーにくらべ圧倒的にカリスマの不足したチンピラだ。その彼が、なぜ組織を持てるのか。
その理由がバットマンだ。
大金を持ち、トンデモな科学を駆使し、超法規的な自警(暴力)行為で、特定の街だけを守る。そのコミック的「ありえなさ」こそを、ジョーカーは衝いていく。「ルールを破るヤツには、俺こそが適任だ」と。


ジョーカーのルール無用ぶりは際だっている。犯罪者に不可欠なはずの、「動機」さえも極限までそぎ落とされてしまったほどに。
しかし、それはニコルソン=ジョーカーもそうだった。レジャー=ジョーカー、そしてノーラン兄弟の恐ろしさは、その混沌、その恐怖、その狂気を、「容易に伝染するもの」として描いていることだ。トゥーフェイス誕生のシーケンス、そして「囚人のジレンマ」を地でいくフェリーでのシーケンス*3などで、観客はそれをたっぷりと思い知らされることになる。そしてそれこそが、今作で提示される、現代的な「悪」の正体*4だ。


ティム・バートンはかつて『バットマン・リターンズ』において、コウモリ、ペンギン、ネコに仮託してしか己を維持できないフリークス達の「オレを、私を認めてよ!」という世界に対する嘆願と、その挫折を描いた。
今作は違う。これはいわば、世界の洗脳合戦だ。そしてその天秤は、一方的に悪の側に傾いていく。


ダークナイト』において、ジョーカーが容易く人心を操るのにくらべ、バットマン達の守るべき「正義」はまったく伝染しない。なんという無慈悲なゲームか。
そもそも、『ビギンズ』以降まったく成長していないブルース・ウェイン*5は、透徹した論理を持つジョーカーに対し、ただ暴力でしか対抗できない。まるで格が違う。あげくお手製のエシュロン=「悪の手段」まで持ち出すが、それは単に、ブルースの心にも「狂気」のくさびが食い込んでいる証左にしかならない。
ジョーカーは語る。「狂気は、重力のようなものだ」
そしてそのジョーカーを肯定するかのように、カメラは回る。価値が転倒する。ジョーカーは勝利したのだ。これって、ホントに娯楽映画か!?


アクション演出がヘボいとか、ヒロインのビジュアルに説得力が無い*6とか、画面外がご都合主義とか、香港編はホントに要るのかとかはもはやどうでもいい、ってあたりがスゴイ。
ちなみに、ブライアン・シンガーとはまったくカブる心配はなかった。こちらは社会性までそぎ落としてあるんで。
大傑作なのは間違いないけど、精神的にめちゃくちゃヘビーな映画なんで、気力が万全じゃない人は見ない方が吉。かなり凹まされます。ヒース・レジャーの死因の一端はコレ演ったからじゃなかろうか。
しっかしよくこんな映画が大ヒットするよなー。アメリカは奥が深い…。

*1:本来のフィルム・ノワールという意味ではないが、ある人物に関してならまんま適用可

*2:前作『ビギンズ』の失敗は、いま思えば「リアリズムで描くだけの(ケレンある)キャラクターが不在だった」ことに尽きる

*3:ご丁寧にも片方は囚人船

*4:テーマ自体は昔からあるが、製作者は必然性をもってこのテーマを選択している

*5:ティム・バートン版のサイコvsサイコではなく、今作は普通の(カネもった)ニィちゃんvsサイコの戦い。勝てるわけがない

*6:キム・ベイシンガーには彼女を男が取り合う必然性を納得させるだけのビジュアルがあった