この世界の片隅に

作品の制作過程はアニメスタイルの連載で知っていたが、当時はちょっと見るのが辛そうな映画だな、と思って距離を置いていた。
そう思った理由は、原作者こうの史代氏の前作「夕凪の街、桜の国」にある。知識として原爆は知っていても、これほどストレートに一人の人生が蹂躙される様を描かれると、容赦なく心が揺さぶられ、下手をすると日常生活にすら支障を及ぼす。それほど力のある作品なのだ、という言い方もできるが、当時多くの問題をリアルで抱えていた自分はなかば無意識的に、似たテーマであろう本作を視界に入れないようにしていたのかもしれない。

それを観に行く気になったのは、本作の制作が長引き、その間に自分の問題にある程度慣れてきたからだ。作品に対しても、劇場アニメとしては前代未聞なクラウドファンディングや、配給がインディの東京テアトル、芸能界を追われたのん(能年玲奈)のゲリラ的な起用*1などのギリギリのマーケティングを見るにつけ、応援したいという気持ちも出てきた。
そして公開。twitterでの好評にも後押しされ、近所のシネコンのナイト上映に滑り込んだが、22時過ぎからの上映にも関わらず、結構人が入っていたのにはちょっと驚いた。
身構えて鑑賞し始めた当初は、その自分の緊張がバカバカしくなるほどゆったりとした演出に、軽く胸をなでおろしたが、その安堵はごく短いものだった。ゆるい日常描写に忍び込む不穏さが、そして「その日」に向けてのカウトダウンのように繰り返しテロップされる日付が必然的に醸す予感が、真綿を締めるように観客を追い詰める。
原作イメージを再現した素朴なマンガ絵に対して、スクリーンから聴こえる音は非常にリアルだ。それは、演出的には不釣り合いにすら思える。
本作の音響監督は片渕監督の兼任、ということは、このミスマッチは意図的なものと考えていいだろう。そしてそれを裏打ちするように、作品には繰り返し繰り返し暴力の波が押し寄せる。そこでリアリズムに徹した音響が大きな効果を上げ、観客を戦場に同席させる。
この「マンガ絵×リアルな音響」という演出は、おそらく「ほのぼの日常×容赦のない暴力」という作品テーマと正しく呼応しており、作品がファンタジーに流れるのを繋ぎ止めている。逆に、一方で徹底してリアリズムに寄り添うことで、冒頭のシーンやイメージシーンなどの「アニメーションならではの表現」がより際立つ、という監督の計算を感じる。
この「非写実的なアニメ表現×実写もかくやというリアリズム」という対立項は『かぐや姫の物語』など、『となりの山田くん』以降*2高畑勲作品に顕著な特徴でもあり、長らく「ポスト宮崎駿」と呼ばれた*3片渕監督は、ここに来て*4「ポスト高畑勲」最右翼の位置につけてきた。そして例えば、高畑の「山田くん」におけるアニメーション表現とリアリズムのコンフリクトは、コトリンゴの音楽に緩衝材の役割を持たせるなどの技巧により、巧妙に回避されている*5

引っかかりを感じた点もある。
上陸してきた幼馴染に対する主人公の描写が、突然「マンガ絵の素朴な少女」から「艶めかしいアニメ美少女」に変わる。このシーンは幼馴染というエクスキューズこそあれ、「つかの間の上陸を果たした海兵に、若く美しい新妻を(保養として)差し出す」というなかなかにエグいシチュエーションだ。それを言葉を使わず、画で伝える演出*6だというのはわかるが、この作品においてはちょっと唐突な印象を受けた。もちろん、この作品は全編で「唐突さ」を演出として駆使しているので、これは個人的な引っかかりといえる。

映画公開と前後して伝えられた本作製作中の片渕須直監督の赤貧ぶり*7はフリーのゲームデザイナーである自分には身につまされるものだった。アニメに限らず日本映画界はだいたい似たようなものだとも思うが、本作の受賞ラッシュによってその雌伏も報われたと思うと感慨深い。
改めて、作品の外側や内容においても、また、主演のんをめぐる芸能界の暗闘においても、本邦における個人とシステムの相克に目を向けさせる現代的な作品でもあったと思う。いまさら自分が言うまでもないけど、傑作。

*1:低予算で話題性をつけるためとはいえ、声優初挑戦の彼女を、ナレーション含め全編喋り続ける主演に起用するのは作品にとって大きな賭けだったろう。結果的に彼女は見事その大役を果たし、映画を救ったが、その賭けが裏目に出ていたら…と思うと恐ろしい

*2:その萌芽は「アニメにする必要があるのか」と言われた実写的アニメ表現の極北だった『おもひでぽろぽろ』にも見られた

*3:今世紀に入る前から言われていたので、元祖「ポスト宮崎駿」の一人であろう。実際、監督として独り立ちする前は宮崎氏の右腕として彼を支えており、『魔女の宅急便』の初代監督であった経緯もある

*4:原恵一も脱落し、誰もそこには座れないと思われていた

*5:とはいえ『となりの山田くん』も矢野顕子なのだから手法としては同じで、その巧拙の話だともいえる

*6:キャラクターデザイン・作画監督は『ああっ女神さまっ』や『サクラ大戦』などの作品で美少女アニメーターとして一世を風靡した松原秀典が務めている。

*7:http://www.cyzo.com/2016/11/post_30196_entry.html

ジェイソン・ボーン

ジャンルのクラシックだったロバート・ラドラムの原作を現代に蘇らせ、スパイ、アクション映画に革新をもたらし新たなるマスターピースともなったジェイソン・ボーンシリーズ。
新作が出るたび自分も興奮させられてきたが、ボーン・アイデンティティーからボーン・アルティメイタムまでの3部作をもって主演、監督コンビが降板。彼ら抜きで作られた外伝(ボーン・レガシー)も微妙、とシリーズは実質終了したものと思っていた。
そこに待望の新作、しかも主演マット・デイモン、監督ポール・グリーングラスも再登板だという。これは見ねばなるまい!と勇んで劇場に向かったものの、本作、かつてのシリーズとテイストが大きく異なり、あまり楽しむことができなかった。
この作風の変化は、スタッフ面でいえば、これまでシリーズすべての脚本を担当し、外伝ボーン・レガシーでは監督も手がけた脚本家トニー・ギルロイの不参加が大きい。グリーングラス監督自らが手がけた物語は暗く陰鬱で、悲劇と悔恨のトーンが全編を覆い、娯楽アクションを見るテンションの観客を容赦なくダウナーな気分に叩き込む。
思えばドキュメンタリー出身のグリーングラス監督はこれまで、ダグ・リーマン監督、トニー・ギルロイ脚本コンビのエンタメ路線をどんどんリアル・シリアス路線に軌道修正してきた。ある意味本作は、その延長として必然的な作品だったのかもしれない。今後もシリーズを観ていくとは思うが、救いのない世界で修羅道を歩む主人公ジェイソン・ボーンに幸あれかし、と願わずにはいられない。

以下余談。
グーグル、ウィキリークス以降の世界情勢を反映し、今作にはエリック・シュミットやスノーデンを模したような人物が重要な役割で登場する。そのあたりはさすがスパイ組織に精通した監督ならではと感じるが、なんでもかんでもネット経由でできてしまうところなど、リアリティに欠ける描写が目立った。
ボーンシリーズの面白さ、サスペンスの妙は「敵の有能さ」に支えられる部分が大きい。その強大な敵に対してほぼ徒手空拳で挑むボーンだからこそ、サル顔な彼にストイックなヒーロー性が宿るのであって、敵がマヌケに見えてしまうとその前提が崩れてしまう。
シリーズは続行らしいので、スタッフのさらなる奮起を期待したい。

タツノコ四天王の軌跡

昔のアニメ雑誌月刊OUT」を読んでいたところ、当時人気だった『未来警察ウラシマン』と『装甲騎兵ボトムズ』の演出家座談会という記事が載っていた*1
そこでウラシマンの真下耕一監督が発した「タツノコのいまのシステムでは、ダグラムボトムズのような大河ドラマはやりづらい」という発言に興味を惹かれた。この発言には、まだ互いに交流が少なかった頃のアニメスタジオならではの「スタジオごとのカルチャーの違いがそのまま作品内容の違いにも直接影響を及ぼしていた時代」を伺わせるものがある。

というわけで、この座談会に登場する真下耕一氏を含む「タツノコ四天王」の軌跡、特にタツノコ系(ぴえろ葦プロ等)以外の東映系、虫プロ系のスタジオとのキャリアの交錯と、その演出スタイルの影響について俯瞰してみたい。
押井守氏を筆頭にキャリア40年におよぶ彼らの軌跡をたどることで、結果的に、日本の商業アニメーションにおける表現の洗練の歴史も垣間見えるのではないかと思う。


タツノコ四天王」について。
タツノコプロ竜の子プロダクション)の演出部部長だった笹川ひろし*2が1976年に採用した新人演出家、真下耕一西久保瑞穂(利彦)、うえだひでひと(植田秀仁)、一年遅れて押井守、の4氏は「タツノコの若き四天王」と呼ばれていたらしい。

4氏が揃ってタツノコに在籍した期間は2年ほどと短く、まだ駆け出しで監督作も持たなかった彼らが四「天王」などと大仰な呼ばれ方をされたのは不思議だが、その理由の一端は、以下の高田明美*3のツイートから推察できるかもしれない。
https://twitter.com/AngelTouchPlus/status/95218076659884032


真下耕一 1952年生まれ。東京都出身。上智大学卒。1976年タツノコプロ入社(75年から研修生)、演出部に配属。
タイムボカン』からキャリアをスタート。代表作『未来警察ウラシマン』『無責任艦長タイラー』『ノワール』等


西久保瑞穂(利彦) 1953年生まれ。東京都(西多摩郡瑞穂町)出身。早稲田大学卒。1976年タツノコプロ入社(75年から研修生)、演出部に配属。
タイムボカン』からキャリアをスタート。代表作『赤い光弾ジリオン』『天空戦記シュラト』『ジョバンニの島』等


うえだひでひと(植田秀仁) 1953年生まれ。山梨県出身。國學院大學卒。2015年没。1976年タツノコプロ入社(75年から研修生)、演出部に配属。
タイムボカン』からキャリアをスタート。代表作『逆転イッパツマン』『昭和アホ草子あかぬけ一番!』『三つ目がとおる』等


押井守 1951年生まれ。東京都(大田区大森)出身。東京学芸大学卒。ラジオディレクターを経て1977年タツノコプロに転職、演出部に配属。1年早く入社した真下耕一が教育係としてつけられる*4
一発貫太くん』からキャリアをスタート。代表作『うる星やつら』『機動警察パトレイバー』『攻殻機動隊』等

※画像はクリックで拡大。参加作品は監督作を中心に、wikipediaや書籍などを参考に作成。互いの仕事が関係している作品(青字)やタツノコ系以外のスタジオとの仕事を優先し、全タイトルを網羅してはいない。また、2000年以降は本稿の趣旨から外れるため除外している


以下、やっと本題。

本稿の主たる目的は「タツノコ四天王のフィルモグラフィから、タツノコ純粋培養だった彼らがどのように他のスタジオの文化に影響されていったか」を探ること*5だが、四天王の各氏について、赤字でその最初のターニングポイントになったと思われるタイトルを示した。

まず、真下氏における『銀河鉄道の夜』だが、これは監督である杉井ギサブロー氏が10年にもおよぶ放浪生活から復帰して作り上げた、極めて静謐で、独特なアニメーションだ。原作は宮沢賢治だが、虫プロ出身の杉井氏の作家性が強く刻印され、背景と音楽をキャラクター以上に「語ら」せることで「動き≒アニメーション」を抑制した、日本発リミテッドアニメの美意識が極限まで高められたフィルムといえる。
この杉井氏の「背景と音楽で語る」演出スタイルに、杉井氏の下でコンテを担当した真下氏は影響を受けたのではないだろうか。それはのちの『EAT-MAN』『ノワール』などの深夜アニメにおいて、梶浦由記とのコンビネーションで花開いてゆく……と見ることもできる。

西久保氏の場合は『マルコ・ポーロの冒険』で、こちらも虫プロ系であるマッドハウスの作品。真崎守や村野守美平田敏夫川尻善昭といったマッドハウス主力メンバーと混じって仕事をしており、その後の虫プロ出身者最大のビッグネーム、出崎統監督との仕事につながってゆく。西久保演出のトレードマークとなったクールな単色光表現や凝った撮影処理などは、出崎氏など虫プロ系の演出家から学んだ部分が大きいのではないか。
余談だが、押井氏はリドリー・スコットを非常に高く評価しており、自作に足りない、「リドリー・スコット的なクールな画面作り」を期待して、自作の演出に西久保氏を起用しているのではないかと思える。西久保氏とも仕事をした川尻善昭氏はやはり出崎統監督との仕事も多く、自らが監督となって以降の諸作でも「リドリー・スコット的なクールな画面作り」と「出崎監督とは違った、動きの快感に溢れたアクション」を武器として日本を代表するアニメ監督となった。同世代の押井・西久保コンビと川尻監督は、その意味でも同門のライバル関係と言えるのかもしれない。

四天王で最後までタツノコに踏ん張ったうえだ氏は、映画作家志望の真下・押井、プロデューサー志望の西久保の各氏と異なり、当初から絵描き志望だった*6。そのためもあってか、キャリア的にも手塚治虫の専属アシスタント第1号でもあった笹川ひろし氏の薫陶をもっとも受けているように思える。
うえだ氏がタツノコ退社後、マッド同様虫プロ系スタジオであるサンライズで担当した作品が『ミスター味っ子』で、あの今川泰宏監督の初監督作である。うえだ氏はあの有名な「味皇大阪城になる」28話のコンテを担当し、その培ったギャグセンスを存分に発揮していた。ちなみに今川氏も実はタツノコ研究所から笹川ひろし事務所に弟子入りした*7笹川チルドレンであり、味っ子はその兄弟弟子のうえだ、今川両氏の競演作ともいえそうだ。今川監督作品ではのちの『七人のナナ』や『鉄人28号』にも参加しており、また東映動画の作品にも多く関わった。シリアスに傾倒する四天王の他の3人と異なり、タツノコ・笹川的ギャグ・生活アニメのテイストを他のスタジオに伝道していく立場だったようにも思える。

押井氏はタツノコから分かれたぴえろで『ガッチャマン』の鳥海氏に私淑したが、ぴえろ退社後は東映系の高畑・宮崎コンビの元に身を寄せ、特に宮崎監督と日夜激論を交わしていたらしい。その縁で劇場でルパンを監督することになったわけだが、マジンガーZ以降のマンガ原作TVシリーズが多くなった当時の東映動画と異なり、それ以前の東映劇場アニメのメインスタッフだった高畑・宮崎コンビは「映画としてのアニメーション」に非常に自覚的で、押井氏が「なぜ作品を作るのか」「なぜアニメーションでなければならないのか」「映画に合った物語、表現とは」といった「演出以前」の部分で彼らに鍛えられたであろうことは想像に難くない。押井氏が映画を主なフィールドにしているのは、本人の元々の志向もあるのだろうが、この当時の経験による部分が大きいのではないだろうか。

今回は「個人が組織外に出て行った場合の影響」について考察したが、もちろん「外部スタッフからの影響」というのも考えられる。例えば四天王在籍時のタツノコには流浪のコンテマン時代の富野由悠季*8もフリーの演出家として出入りしており、若き四天王は編集室などでその仕事ぶりを間近に見ることもあったという*9。また、四天王の先輩としてタツノコに在籍した林政行氏、杉井興治氏はそれぞれ虫プロりんたろう氏、杉井ギサブロー氏の実弟であり、その演出エッセンスが伝えられた可能性は大いにある。



以下余談、フィルモグラフィについての補足。
真下氏の1985年『11人いる!』は萩尾望都の名作SFマンガの劇場アニメ企画。各アニメ誌に情報が掲載されたが頓挫したようだ。のちに出崎哲監督でOVA化されている。ちなみにこの前年、1984年に真下氏の作品がないのは、スキーの事故が元で生死の境をさまよっていたから、らしい*10
同じく真下氏の1989年、TV版パトレイバーのコンテ「高野太」が真下氏のペンネームとのネットでの定説だが、「高野太」自体はタツノコ系スタッフのいわば共通ペンネームであり*11、真下氏に比較的近い筋からの情報*12もあるが、真下氏と特定できる資料は発見できなかった。ほぼ同時期のOVAドミニオン』ACT3,4の脚本も高野太名義だが、こちらは真下氏のペンネームと思われ*13、この両「高野太」が同一人物であるなら、真下氏である可能性はさらに高まる。
また、wikipediaでは真下氏が西久保氏の『赤い光弾ジリオン』に参加と書かれているが、放映リストには記載がない。アニメージュニュータイプといったアニメ誌で「タツノコ四天王揃い踏み!」のように書かれていたから、その情報が残っている可能性もある。ジリオンの各話コンテに真下氏の腹心、石山タカ明氏の名前は見えるので、そのあたりにヒントがありそうだ。

西久保氏は寡作なようにも見えるが、CMなど、TV・劇場・ビデオ以外の仕事も手がけているようだ。有名なところではディズニーのCM*14など。先ごろ惜しくも亡くなられた西久保氏の奥様、声優の水谷優子さん(ミニーマウス役)の影響も感じる。

うえだひでひと氏がタツノコを退社した1987年はタツノコの大リストラがあった年でもあった。四天王の大先輩、タツノコ演出部の重鎮だった原征太郎氏や、この年放映したジリオンでも、うえだ氏のほか、制作の石川氏、文芸の関島氏、美術の多田氏などがこの年、タツノコを離れている。四天王の他の3人がその後、石川氏のIGと大きく関わっている*15のに、うえだ氏のみIGがらみの仕事がなく、タツノコにも西久保氏のシュラトと四天王の師笹川ひろし氏のきらめきマンくらいしか関わっておらず、何らかの屈託を感じさせる。

押井氏に関しては十分語られていると思うので軽く触れるに留める。幻の押井版「ルパン」と真下版「11人いる!」の中止時期がほぼ一緒なのは興味深い。どちらも超メジャーな原作にまだ若かった当時の彼らが自らのテイストで挑もうと意気込んだ上での敗北、と考えると、のちの彼らのフィルモグラフィーに与えた影響は大きそうだ。


また、なんだかんだ言って各氏が、それぞれの監督作品に参加しているのはなんというか、同期の絆が可視化されているようで微笑ましい。コンビを組むことが多い押井氏と西久保氏は麻雀仲間でもあり、西久保氏が押井氏にIG石川氏*16を推薦したのも麻雀の席だったとか*17
四天王が一堂に会する場としては、年に一度(と言いつつ98年ごろには3年に一度になっていたりする)「笹川さんを囲む会」が行われていたらしい*18
昨年、最年少のうえだ氏が亡くなられたことで「四天王」も3人となってしまったのは残念だ。


2016/11/14追記 - 真下耕一氏のフィルモグラフィを参考文献Dをもとに修正
2017/02/19追記 - 西久保瑞穂氏のフィルモグラフィに『バーチャファイター カスタマイズクリップ』『スライム冒険記 ウルフ君がんばるの巻』『子育てクイズもっとマイエンジェル』を、押井守氏に『PATLABOR THE LIVE ACTION MOVIE』を追加

主要参考文献
A : ボトムズVSウラシマン演出家座談会(OUT1984年3月号)
B : 「うる星やつら」につづくのはダレだ!? 押井守とそのライバルたち(アニメージュ1983年1月号)
C : 竜の子四天王、押井守を語る。(「前略、押井守様。」野田真外編著)
D : この人に話を聞きたい 真下耕一アニメージュ2004年4月号)
E : インタビュー 西久保瑞穂(「軌跡 Production I.G 1988-2002」)

*1:参考文献A

*2:タイムボカンシリーズの生みの親であり総監督。タツノコプロ創立メンバーの一人

*3:押井氏の同期入社

*4:参考文献B

*5:11/14追記 ちなみに四氏ともタツノコ入社時はアニメについてはほぼ素人。演出テクニックについても業界入りしてからゼロから覚えていった。その点、学生時代からアニメファンで様々なアニメ演出技法を知っているような世代とは基本が異なる

*6:自ら版権イラストなども手がけている https://twitter.com/west_sin/status/615877105578962944

*7:笹川氏の自伝によると、24時間テレビでは笹川氏のアシスタントとして手塚治虫氏とも仕事をしたらしい

*8:当時は「富野喜幸」名義

*9:参考文献C

*10:参考文献D

*11:参考文献C

*12:タイラーなどで真下氏とともに仕事をした大野和寿氏のツイート https://twitter.com/Notchy_man/status/753968250254336000

*13:11/14追記 やはり真下氏が脚本で確定(参考文献D)

*14:https://www.youtube.com/watch?v=clFq7xwxV-Q

*15:真下氏の会社ビィートレインはIGの出資を受けて設立されている

*16:真下氏監督、石川氏制作のゴールドライタンに押井氏も参加しているが、石川氏の著書によるとその当時は接点がなかったらしい

*17:参考文献E

*18:参考文献B,C

シン・ゴジラ

それほど興味もなかったんですが、公開直後からTwitterのTL上で名うてのうるさ型たちが諸手を挙げて大絶賛状態だったので、情報があれこれ入ってくる前に、ということで8/1の映画の日に川崎で観てきましたよ。
で、たいそう楽しみました。少なくとも現時点での日本特撮映画のベストといえる作品だと思う。
以下、ネタバレ全開で良かったところと悪かったところ。

良かったところ

  • 圧倒的な破壊と暴力のカタルシス。この点に関しては、もうどれだけ褒めても褒めすぎということはないと思う
  • 現実の延長としてリアリズムで(前半部は)作られているところ。「未知の怪獣が現れた」以外のフィクションは極力排除されている
  • 画面も演出も演技も一流を揃えていて安っぽくないところ。「あぁ、ここお金なかったんだな…」と現実に戻される瞬間がない
  • 上映時間のほとんどが事件とその対処の描写のみに充てられており*1、描かれる事件の密度が非常に高い
  • アニメで培った圧倒的なカッティング*2と早口で詰め込まれたセリフ。おかげで上映時間に対する緊密度も非常に高い
  • これまでの怪獣映画で観たこともない「画」があるところ。特に、川崎の工場地帯でクルマで走りながらゴジラを見上げるカットは素晴らしい
  • 必要な「画」があることで、重たいセリフがあっても安っぽくなっていないところ
  • あからさまな「ご都合主義」は基本的に排され、かなり理詰めで作られているところ
  • ゴジラが「怪獣」としてキャラクター化されず、コミュニケーションできない破壊の化身として君臨するところ*3
  • 知っている場所がたくさん出てくる。特に、アクアラインはよく使うので冒頭がアクアラインなのは個人的にすごくキャッチー
  • たくさんのオマージュが(ほとんどの場面では)邪魔にならずに映画にちゃんと奉仕しているところ
  • 時事ネタ満載で、自覚的に「3.11以後の災害映画」として作られているところ
  • 事件に関係しない人間ドラマや、ヘタクソな芸能人キャスト、世界観ぶち壊しのエンディング曲など、「悪しき邦画の呪縛」を感じさせないところ*4
  • でんしゃ大活躍
  • 最後にちゃんと立ち上がるところ*5

悪かったところ

  • 圧倒的な破壊と殺戮のショーを見せた「荒ぶる神」が、一夜明けたら「人智を尽くせば対処可能な課題」にスケールダウンしてしまうこと
  • 前半と後半で明らかに映画のトーンが変わり、リアリティレベルが(意図的に)下げられるところ。最後まで前半のトーンで見せてくれれば超傑作だったのに…という憾みがある
  • カヨコ(石原さとみの役)。往年の東宝特撮名物「ヘンな外人」枠であり、エヴァのアスカやミサトの実写版だが、やっぱり一人だけリアリティがない*6
  • カヨコ以外でも、外国の絡むあたりは突然リアリティがなくなり、とても安っぽくなる。オマージュとも考えられるが、これによって映画の完成度、緊密度が下がっている*7
  • 肝心なところで流れる古い録音の劇伴。映画に没頭しているのに、「これって映画、作り物ですよ?」と言われたようで醒める*8
  • 紋切り型のセリフ。アニメならまだ許されるのかもしれないが、実写でやられるとキツイセリフがちょこちょこある
  • 表層的な政治批判、アメリカ批判。マス向けのエンタメとしては定番の構図だが、前半のリアリズムとの相性が悪く、映画の完成度を下げている。ここだけ現代じゃなく80年代っぽい

全体としては、人間ドラマに手を出さず、得意分野に特化してひたすら「叙事」のつるべ打ちにしたのは大正解。エヴァ破→Qに至る、キャラクターへの興味の希薄化、先鋭化した暴力表現もそのまま引き継がれ、非常にテンションの高いフィルムになっていた。あとは、上で書いたような「まだ残っている不得意分野部分」を切り捨ててくれれば(具体的にはあと20分削ってくれれば)、個人的にハリウッドの『コンテイジョン』や『ユナイテッド93』といった「9.11映画」に比肩しうる、「3.11映画」として世界にも問える一作となると思う。インターナショナル版の登場を期待!か?

*1:「事件:人物」比が極端に事件寄り

*2:実写では編集は基本的に編集者の仕事だが、アニメでは往々にして絵コンテレベルで編集後のカッティングを想定している。宮崎駿庵野秀明川尻善昭といった、優れたアニメーターが監督する場合はフレーム単位で完成形が「見えて」いるとか

*3:とはいえ、ラストはすごく象徴的にシンボル化されるのだが…

*4:東宝の取締役インタビューがWebに出ており、今作に限ってそれができた理由が赤裸々に語られている

*5:ヤシオリ作戦が順調に進んでいる間、「やばい!このまま上手くいってしまうと、ゴジラが首をだらりと下げた世にもかっこ悪い画で映画が終わってしまう!?」とずっとハラハラしていた。理屈ではおかしいが、本当に立ち上がってくれて(画の都合を優先してくれて)良かった

*6:また、あれほど日本びいきの日系人アメリカ大統領になれるとは、現時点ではとても思えない

*7:イムリミット型サスペンスにはなったが、「対ゴジラ」で徹底していたストーリーの軸がここで少しブレている

*8:これを避けるために、すべて古い録音で押し通すか、新録曲を低音質に加工しても良かったのでは

コンレボで描かれなかった「ナマモノ」ヒーローとその幻想

アニメ『コンクリート・レボルティオ〜超人幻想〜』を観て、いろいろ妄想が広がってしまったので忘れないうちに。
前回の記事で、あの作品のラスボスになるべきだったのは正力松太郎だったのでは、と書いたが、もし本当に正力がラスボスだったなら、コンレボにおける「超人」ラインナップはかなり修正を迫られることになったんじゃないかと思う。
以下、もうほとんどコンレボ関係なく俺ジナルの痛い妄想ですのでご注意を。
コンレボにおいては、いわゆる「ナマモノ」=実在人物ヒーローは、基本的に「超人」ラインナップから、意図的かどうかはともかく外されていた。例外が、中島かずきがゲストとして脚本を書いた札幌オリンピック回だが、ここでオリンピック選手=超人、とはしていない。なのだが、もし正力をラスボスとして同様な「超人幻想」を綴るとするなら、正力の手駒であるところの野球、わけても当時人気絶頂だった読売ジャイアンツの選手を入れないわけにはいかないだろう。特に長嶋、王などはまさに時代の「ヒーロー」だった。もしかしたら、コンレボで扱われているマンガ、アニメ、特撮のヒーローよりも、当時の子供たちには人気があったかもしれない。
このあたりの感覚は、原作者にしてシリーズ構成とほとんどの脚本も担う會川昇のセンスによるところが大きい気がする。コンレボのラストでやや唐突に語られた「フィクションへの思い」の強さを見ても、會川氏は筆者同様に、空想的逃避的な番組世界にこそヒーローを求め、現実のヒーローにはそこまでのめりこまなかったのではないか、と思える。もっと単純化するなら、そもそも野球に興味がない子供だった、とか。
だがここで、フィクショナルなマンガ、TV番組のヒーローと、現実のヒーローとを架橋させる男、梶原一騎が昭和40年代を席巻したことを忘れるわけにはいかない。
梶原の代表作である『巨人の星』はまさに正力の巨人軍がヒーローとして登場し、『侍ジャイアンツ』でも引き続いて使われている。また、『タイガーマスク』においても、実際のリングに本物のプロレスラー「タイガーマスク」が登場、「幻想」と現実の境界は限りなく薄くなった。そして、プロレスにおける虚実混交は、のちの『プロレススーパースター列伝』において頂点を極めたといえるのではないだろうか。
これら梶原的「ナマモノ」感あふれるヒーローは、その「超人」性を、トレーニング(修行)による肉体改造によって獲得している。タフな肉体を獲得し力を振るうヒーローは、その力の源泉として、その修行に耐えうるタフな精神性の持ち主なのである、という逆説的なヒーロー観がそこに伺われる。
そこでもう一度、フィクション≒幻想の側のヒーローに目を向けると、そこに源流に居るのは川内康範だ。彼の仏教思想は『レインボーマン』など表面化したものだけでなく、『月光仮面』以下、彼の多くのヒーローに通底する「善を求める精神性こそがヒーロー」という価値観を生んだ。コンレボにおけるヒーロー観も、基本的にはこの川内路線であるといっていい*1
つまり昭和40年代とは、川内康範的「高潔な精神のヒーロー」から、梶原一騎的「強靭な精神のヒーロー」へと、その価値観が変遷する時代だったのではないか。後者における「生身の存在感」に、オタク的な前者が押されていた時代だったとさえいえる。これを覆したのが『宇宙戦艦ヤマト』と『機動戦士ガンダム』なのだが、どちらもヒーローものとはいえず、後者に至っては40年代を外れている*2。50年代は『北斗の拳』など、すでに梶原的ヒーローさえも一種のパロディとして扱われる時代になっていた*3。「幻想か否か」を問う時代ではなくなっていたのであろう。
というわけで、正力松太郎の息のかかった梶原的「肉体」ヒーローと、もはや子供だましと謗られつつあった川内的「精神」ヒーローの戦いの場としての昭和40年代をどなたか描いてくれないものか。まさかのコンレボ第3期でもいいですよ。

*1:作中で主人公のメンター的存在だったキャラのモチーフがそもそも月光仮面

*2:つまり、コンレボ自体も『ガンダム』前夜までを描いている

*3:自分の周辺では、その当時『プロレススーパースター列伝』もある種のギャグマンガ的に読まれていた

ロジテックLAN-W301NRの動作不良対処法

検索したら同じ問題に悩まされてる人が結構いたのでここに書いておきます。
ロジテック無線LANルーター、LAN-W301NRをこれまで使ってきて、頻繁にデータ転送されなくなる不具合が発生していた。電源を入れなおせば治るのだが、あまりに頻繁でとにかくストレス度が高い。
そこでロジテックのHPで最新ファームウェアを更新したところ、劇的に改善された。同じ症状に悩まされている方はこのページの「ファームウェア」からお試しを。