コンレボで描かれなかった「ナマモノ」ヒーローとその幻想

アニメ『コンクリート・レボルティオ〜超人幻想〜』を観て、いろいろ妄想が広がってしまったので忘れないうちに。
前回の記事で、あの作品のラスボスになるべきだったのは正力松太郎だったのでは、と書いたが、もし本当に正力がラスボスだったなら、コンレボにおける「超人」ラインナップはかなり修正を迫られることになったんじゃないかと思う。
以下、もうほとんどコンレボ関係なく俺ジナルの痛い妄想ですのでご注意を。
コンレボにおいては、いわゆる「ナマモノ」=実在人物ヒーローは、基本的に「超人」ラインナップから、意図的かどうかはともかく外されていた。例外が、中島かずきがゲストとして脚本を書いた札幌オリンピック回だが、ここでオリンピック選手=超人、とはしていない。なのだが、もし正力をラスボスとして同様な「超人幻想」を綴るとするなら、正力の手駒であるところの野球、わけても当時人気絶頂だった読売ジャイアンツの選手を入れないわけにはいかないだろう。特に長嶋、王などはまさに時代の「ヒーロー」だった。もしかしたら、コンレボで扱われているマンガ、アニメ、特撮のヒーローよりも、当時の子供たちには人気があったかもしれない。
このあたりの感覚は、原作者にしてシリーズ構成とほとんどの脚本も担う會川昇のセンスによるところが大きい気がする。コンレボのラストでやや唐突に語られた「フィクションへの思い」の強さを見ても、會川氏は筆者同様に、空想的逃避的な番組世界にこそヒーローを求め、現実のヒーローにはそこまでのめりこまなかったのではないか、と思える。もっと単純化するなら、そもそも野球に興味がない子供だった、とか。
だがここで、フィクショナルなマンガ、TV番組のヒーローと、現実のヒーローとを架橋させる男、梶原一騎が昭和40年代を席巻したことを忘れるわけにはいかない。
梶原の代表作である『巨人の星』はまさに正力の巨人軍がヒーローとして登場し、『侍ジャイアンツ』でも引き続いて使われている。また、『タイガーマスク』においても、実際のリングに本物のプロレスラー「タイガーマスク」が登場、「幻想」と現実の境界は限りなく薄くなった。そして、プロレスにおける虚実混交は、のちの『プロレススーパースター列伝』において頂点を極めたといえるのではないだろうか。
これら梶原的「ナマモノ」感あふれるヒーローは、その「超人」性を、トレーニング(修行)による肉体改造によって獲得している。タフな肉体を獲得し力を振るうヒーローは、その力の源泉として、その修行に耐えうるタフな精神性の持ち主なのである、という逆説的なヒーロー観がそこに伺われる。
そこでもう一度、フィクション≒幻想の側のヒーローに目を向けると、そこに源流に居るのは川内康範だ。彼の仏教思想は『レインボーマン』など表面化したものだけでなく、『月光仮面』以下、彼の多くのヒーローに通底する「善を求める精神性こそがヒーロー」という価値観を生んだ。コンレボにおけるヒーロー観も、基本的にはこの川内路線であるといっていい*1
つまり昭和40年代とは、川内康範的「高潔な精神のヒーロー」から、梶原一騎的「強靭な精神のヒーロー」へと、その価値観が変遷する時代だったのではないか。後者における「生身の存在感」に、オタク的な前者が押されていた時代だったとさえいえる。これを覆したのが『宇宙戦艦ヤマト』と『機動戦士ガンダム』なのだが、どちらもヒーローものとはいえず、後者に至っては40年代を外れている*2。50年代は『北斗の拳』など、すでに梶原的ヒーローさえも一種のパロディとして扱われる時代になっていた*3。「幻想か否か」を問う時代ではなくなっていたのであろう。
というわけで、正力松太郎の息のかかった梶原的「肉体」ヒーローと、もはや子供だましと謗られつつあった川内的「精神」ヒーローの戦いの場としての昭和40年代をどなたか描いてくれないものか。まさかのコンレボ第3期でもいいですよ。

*1:作中で主人公のメンター的存在だったキャラのモチーフがそもそも月光仮面

*2:つまり、コンレボ自体も『ガンダム』前夜までを描いている

*3:自分の周辺では、その当時『プロレススーパースター列伝』もある種のギャグマンガ的に読まれていた