タツノコ四天王の軌跡

昔のアニメ雑誌月刊OUT」を読んでいたところ、当時人気だった『未来警察ウラシマン』と『装甲騎兵ボトムズ』の演出家座談会という記事が載っていた*1
そこでウラシマンの真下耕一監督が発した「タツノコのいまのシステムでは、ダグラムボトムズのような大河ドラマはやりづらい」という発言に興味を惹かれた。この発言には、まだ互いに交流が少なかった頃のアニメスタジオならではの「スタジオごとのカルチャーの違いがそのまま作品内容の違いにも直接影響を及ぼしていた時代」を伺わせるものがある。

というわけで、この座談会に登場する真下耕一氏を含む「タツノコ四天王」の軌跡、特にタツノコ系(ぴえろ葦プロ等)以外の東映系、虫プロ系のスタジオとのキャリアの交錯と、その演出スタイルの影響について俯瞰してみたい。
押井守氏を筆頭にキャリア40年におよぶ彼らの軌跡をたどることで、結果的に、日本の商業アニメーションにおける表現の洗練の歴史も垣間見えるのではないかと思う。


タツノコ四天王」について。
タツノコプロ竜の子プロダクション)の演出部部長だった笹川ひろし*2が1976年に採用した新人演出家、真下耕一西久保瑞穂(利彦)、うえだひでひと(植田秀仁)、一年遅れて押井守、の4氏は「タツノコの若き四天王」と呼ばれていたらしい。

4氏が揃ってタツノコに在籍した期間は2年ほどと短く、まだ駆け出しで監督作も持たなかった彼らが四「天王」などと大仰な呼ばれ方をされたのは不思議だが、その理由の一端は、以下の高田明美*3のツイートから推察できるかもしれない。
https://twitter.com/AngelTouchPlus/status/95218076659884032


真下耕一 1952年生まれ。東京都出身。上智大学卒。1976年タツノコプロ入社(75年から研修生)、演出部に配属。
タイムボカン』からキャリアをスタート。代表作『未来警察ウラシマン』『無責任艦長タイラー』『ノワール』等


西久保瑞穂(利彦) 1953年生まれ。東京都(西多摩郡瑞穂町)出身。早稲田大学卒。1976年タツノコプロ入社(75年から研修生)、演出部に配属。
タイムボカン』からキャリアをスタート。代表作『赤い光弾ジリオン』『天空戦記シュラト』『ジョバンニの島』等


うえだひでひと(植田秀仁) 1953年生まれ。山梨県出身。國學院大學卒。2015年没。1976年タツノコプロ入社(75年から研修生)、演出部に配属。
タイムボカン』からキャリアをスタート。代表作『逆転イッパツマン』『昭和アホ草子あかぬけ一番!』『三つ目がとおる』等


押井守 1951年生まれ。東京都(大田区大森)出身。東京学芸大学卒。ラジオディレクターを経て1977年タツノコプロに転職、演出部に配属。1年早く入社した真下耕一が教育係としてつけられる*4
一発貫太くん』からキャリアをスタート。代表作『うる星やつら』『機動警察パトレイバー』『攻殻機動隊』等

※画像はクリックで拡大。参加作品は監督作を中心に、wikipediaや書籍などを参考に作成。互いの仕事が関係している作品(青字)やタツノコ系以外のスタジオとの仕事を優先し、全タイトルを網羅してはいない。また、2000年以降は本稿の趣旨から外れるため除外している


以下、やっと本題。

本稿の主たる目的は「タツノコ四天王のフィルモグラフィから、タツノコ純粋培養だった彼らがどのように他のスタジオの文化に影響されていったか」を探ること*5だが、四天王の各氏について、赤字でその最初のターニングポイントになったと思われるタイトルを示した。

まず、真下氏における『銀河鉄道の夜』だが、これは監督である杉井ギサブロー氏が10年にもおよぶ放浪生活から復帰して作り上げた、極めて静謐で、独特なアニメーションだ。原作は宮沢賢治だが、虫プロ出身の杉井氏の作家性が強く刻印され、背景と音楽をキャラクター以上に「語ら」せることで「動き≒アニメーション」を抑制した、日本発リミテッドアニメの美意識が極限まで高められたフィルムといえる。
この杉井氏の「背景と音楽で語る」演出スタイルに、杉井氏の下でコンテを担当した真下氏は影響を受けたのではないだろうか。それはのちの『EAT-MAN』『ノワール』などの深夜アニメにおいて、梶浦由記とのコンビネーションで花開いてゆく……と見ることもできる。

西久保氏の場合は『マルコ・ポーロの冒険』で、こちらも虫プロ系であるマッドハウスの作品。真崎守や村野守美平田敏夫川尻善昭といったマッドハウス主力メンバーと混じって仕事をしており、その後の虫プロ出身者最大のビッグネーム、出崎統監督との仕事につながってゆく。西久保演出のトレードマークとなったクールな単色光表現や凝った撮影処理などは、出崎氏など虫プロ系の演出家から学んだ部分が大きいのではないか。
余談だが、押井氏はリドリー・スコットを非常に高く評価しており、自作に足りない、「リドリー・スコット的なクールな画面作り」を期待して、自作の演出に西久保氏を起用しているのではないかと思える。西久保氏とも仕事をした川尻善昭氏はやはり出崎統監督との仕事も多く、自らが監督となって以降の諸作でも「リドリー・スコット的なクールな画面作り」と「出崎監督とは違った、動きの快感に溢れたアクション」を武器として日本を代表するアニメ監督となった。同世代の押井・西久保コンビと川尻監督は、その意味でも同門のライバル関係と言えるのかもしれない。

四天王で最後までタツノコに踏ん張ったうえだ氏は、映画作家志望の真下・押井、プロデューサー志望の西久保の各氏と異なり、当初から絵描き志望だった*6。そのためもあってか、キャリア的にも手塚治虫の専属アシスタント第1号でもあった笹川ひろし氏の薫陶をもっとも受けているように思える。
うえだ氏がタツノコ退社後、マッド同様虫プロ系スタジオであるサンライズで担当した作品が『ミスター味っ子』で、あの今川泰宏監督の初監督作である。うえだ氏はあの有名な「味皇大阪城になる」28話のコンテを担当し、その培ったギャグセンスを存分に発揮していた。ちなみに今川氏も実はタツノコ研究所から笹川ひろし事務所に弟子入りした*7笹川チルドレンであり、味っ子はその兄弟弟子のうえだ、今川両氏の競演作ともいえそうだ。今川監督作品ではのちの『七人のナナ』や『鉄人28号』にも参加しており、また東映動画の作品にも多く関わった。シリアスに傾倒する四天王の他の3人と異なり、タツノコ・笹川的ギャグ・生活アニメのテイストを他のスタジオに伝道していく立場だったようにも思える。

押井氏はタツノコから分かれたぴえろで『ガッチャマン』の鳥海氏に私淑したが、ぴえろ退社後は東映系の高畑・宮崎コンビの元に身を寄せ、特に宮崎監督と日夜激論を交わしていたらしい。その縁で劇場でルパンを監督することになったわけだが、マジンガーZ以降のマンガ原作TVシリーズが多くなった当時の東映動画と異なり、それ以前の東映劇場アニメのメインスタッフだった高畑・宮崎コンビは「映画としてのアニメーション」に非常に自覚的で、押井氏が「なぜ作品を作るのか」「なぜアニメーションでなければならないのか」「映画に合った物語、表現とは」といった「演出以前」の部分で彼らに鍛えられたであろうことは想像に難くない。押井氏が映画を主なフィールドにしているのは、本人の元々の志向もあるのだろうが、この当時の経験による部分が大きいのではないだろうか。

今回は「個人が組織外に出て行った場合の影響」について考察したが、もちろん「外部スタッフからの影響」というのも考えられる。例えば四天王在籍時のタツノコには流浪のコンテマン時代の富野由悠季*8もフリーの演出家として出入りしており、若き四天王は編集室などでその仕事ぶりを間近に見ることもあったという*9。また、四天王の先輩としてタツノコに在籍した林政行氏、杉井興治氏はそれぞれ虫プロりんたろう氏、杉井ギサブロー氏の実弟であり、その演出エッセンスが伝えられた可能性は大いにある。



以下余談、フィルモグラフィについての補足。
真下氏の1985年『11人いる!』は萩尾望都の名作SFマンガの劇場アニメ企画。各アニメ誌に情報が掲載されたが頓挫したようだ。のちに出崎哲監督でOVA化されている。ちなみにこの前年、1984年に真下氏の作品がないのは、スキーの事故が元で生死の境をさまよっていたから、らしい*10
同じく真下氏の1989年、TV版パトレイバーのコンテ「高野太」が真下氏のペンネームとのネットでの定説だが、「高野太」自体はタツノコ系スタッフのいわば共通ペンネームであり*11、真下氏に比較的近い筋からの情報*12もあるが、真下氏と特定できる資料は発見できなかった。ほぼ同時期のOVAドミニオン』ACT3,4の脚本も高野太名義だが、こちらは真下氏のペンネームと思われ*13、この両「高野太」が同一人物であるなら、真下氏である可能性はさらに高まる。
また、wikipediaでは真下氏が西久保氏の『赤い光弾ジリオン』に参加と書かれているが、放映リストには記載がない。アニメージュニュータイプといったアニメ誌で「タツノコ四天王揃い踏み!」のように書かれていたから、その情報が残っている可能性もある。ジリオンの各話コンテに真下氏の腹心、石山タカ明氏の名前は見えるので、そのあたりにヒントがありそうだ。

西久保氏は寡作なようにも見えるが、CMなど、TV・劇場・ビデオ以外の仕事も手がけているようだ。有名なところではディズニーのCM*14など。先ごろ惜しくも亡くなられた西久保氏の奥様、声優の水谷優子さん(ミニーマウス役)の影響も感じる。

うえだひでひと氏がタツノコを退社した1987年はタツノコの大リストラがあった年でもあった。四天王の大先輩、タツノコ演出部の重鎮だった原征太郎氏や、この年放映したジリオンでも、うえだ氏のほか、制作の石川氏、文芸の関島氏、美術の多田氏などがこの年、タツノコを離れている。四天王の他の3人がその後、石川氏のIGと大きく関わっている*15のに、うえだ氏のみIGがらみの仕事がなく、タツノコにも西久保氏のシュラトと四天王の師笹川ひろし氏のきらめきマンくらいしか関わっておらず、何らかの屈託を感じさせる。

押井氏に関しては十分語られていると思うので軽く触れるに留める。幻の押井版「ルパン」と真下版「11人いる!」の中止時期がほぼ一緒なのは興味深い。どちらも超メジャーな原作にまだ若かった当時の彼らが自らのテイストで挑もうと意気込んだ上での敗北、と考えると、のちの彼らのフィルモグラフィーに与えた影響は大きそうだ。


また、なんだかんだ言って各氏が、それぞれの監督作品に参加しているのはなんというか、同期の絆が可視化されているようで微笑ましい。コンビを組むことが多い押井氏と西久保氏は麻雀仲間でもあり、西久保氏が押井氏にIG石川氏*16を推薦したのも麻雀の席だったとか*17
四天王が一堂に会する場としては、年に一度(と言いつつ98年ごろには3年に一度になっていたりする)「笹川さんを囲む会」が行われていたらしい*18
昨年、最年少のうえだ氏が亡くなられたことで「四天王」も3人となってしまったのは残念だ。


2016/11/14追記 - 真下耕一氏のフィルモグラフィを参考文献Dをもとに修正
2017/02/19追記 - 西久保瑞穂氏のフィルモグラフィに『バーチャファイター カスタマイズクリップ』『スライム冒険記 ウルフ君がんばるの巻』『子育てクイズもっとマイエンジェル』を、押井守氏に『PATLABOR THE LIVE ACTION MOVIE』を追加

主要参考文献
A : ボトムズVSウラシマン演出家座談会(OUT1984年3月号)
B : 「うる星やつら」につづくのはダレだ!? 押井守とそのライバルたち(アニメージュ1983年1月号)
C : 竜の子四天王、押井守を語る。(「前略、押井守様。」野田真外編著)
D : この人に話を聞きたい 真下耕一アニメージュ2004年4月号)
E : インタビュー 西久保瑞穂(「軌跡 Production I.G 1988-2002」)

*1:参考文献A

*2:タイムボカンシリーズの生みの親であり総監督。タツノコプロ創立メンバーの一人

*3:押井氏の同期入社

*4:参考文献B

*5:11/14追記 ちなみに四氏ともタツノコ入社時はアニメについてはほぼ素人。演出テクニックについても業界入りしてからゼロから覚えていった。その点、学生時代からアニメファンで様々なアニメ演出技法を知っているような世代とは基本が異なる

*6:自ら版権イラストなども手がけている https://twitter.com/west_sin/status/615877105578962944

*7:笹川氏の自伝によると、24時間テレビでは笹川氏のアシスタントとして手塚治虫氏とも仕事をしたらしい

*8:当時は「富野喜幸」名義

*9:参考文献C

*10:参考文献D

*11:参考文献C

*12:タイラーなどで真下氏とともに仕事をした大野和寿氏のツイート https://twitter.com/Notchy_man/status/753968250254336000

*13:11/14追記 やはり真下氏が脚本で確定(参考文献D)

*14:https://www.youtube.com/watch?v=clFq7xwxV-Q

*15:真下氏の会社ビィートレインはIGの出資を受けて設立されている

*16:真下氏監督、石川氏制作のゴールドライタンに押井氏も参加しているが、石川氏の著書によるとその当時は接点がなかったらしい

*17:参考文献E

*18:参考文献B,C