メッセージ

こちらもまた、非常に内省的な映画である。平和的なファーストコンタクトを描いた生真面目なSFとして『コンタクト』と比べる向きもあろうが、「未知と宇宙とに対峙する人類のアイデンティティ」としての個人の信仰が描かれた『コンタクト』と異なり、こちらはその「未知と宇宙」が単なるガジェットとしてしか登場しない。そこで描かれる異星人像は、ビジュアルこそ『ミスト』を思わせる禍々しい姿のワリに、その行動の動機はわかってしまえば拍子抜けするほど、合理的かつ単純なものだ。
つまり今作、あの『インターステラー』がそうであったように、徹底的に「人間」にしか興味がない作品なのだ。そのため、手の込んだタイムパラドックスを仕込んだラストシーンにしても、「ああ、こんな反則をやろうとしたらSFにするしかないよね」「でもこれって、基本的には泣かせアイテムオブ泣かせアイテム"死者からの手紙"の未来バージョンじゃね」という醒めた感想になってしまった。端的に言えば、「すぐれたSF」ではなく「すぐれた感動もの」として作られた作品であり、現代の観客の感動のボタンを押すようチューニングされたSFという点で、細田守版『時をかける少女』あたりと同列に語られるべき映画といえる。
ところで今作、映画の前に同じ監督の『ブレードランナー2049』の予告が流れた。『メッセージ』本編でも見せてくれたように、ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督は「モノ」に対する強いフェティッシュを持った、まさにリドリー・スコットと同じ資質を伺わせる映画作家だ。その監督の手がけた『ブレードランナー2049』の予告はやはり素晴らしく、あまり期待していなかった同作に対しての期待度はかなり上がった。どういう物語嗜好を持つ監督かを見極める意味も含め、10月の公開を正座して待ちたい。

フューリー

ブラピが第2次大戦の戦車小隊を率いるというアレ。当時はガルパンとかのブームで熱血戦争映画かと思ってたら、実際はかなり宗教色の強いイマドキらしい哲学的な内容だった。
話の縦軸としては、観客の目線として小隊に配属される若者(しかもご丁寧に実戦経験がなく、観客同様に人殺しを忌避する現代人のようなメンタリティを持っている)の目を通した戦争の真実と、その成長物語にもなっている、というある意味王道、テッパンの物語になっているのだが、横軸として「戦争における神の立ち位置」とでもいうべきキリスト教文化圏ならではのテーマが据えられ、それらしいモチーフを散りばめながら、メインストーリーに異なる意味づけを与えている。
中でも、画面に繰り返し繰り返し登場する磔刑と十字架のイメージは強く印象に残る。ストーリーの必然性があるからこの画面なのか、こういう画面を見せたいからこういうお話なのか、は常にあいまいで、作品はところどころで幻想的でさえある。
ラストシーン、十字路にて果てたフューリー号は、その胎内から一人の男を脱出させることでそのスクラップ化=死に意味をもたせ、実質的な復活を遂げる。男だらけの世界から処女懐胎ならぬプロ童貞として生還(生誕)する彼は、ブラピが持っていた「父なる〇〇」を継承する者だ。そのためにこそ、彼の戦友たちと多くのSSは死なねばならなかったし、十字路のど真ん中に地雷はあったのだ。
様々な意味で非常に現代的にアップデートされた戦争映画だが、なにも戦争映画でまでキリスト教を考える必要はないではないか、と思ってしまうのはたぶん自分が製作者たちの文化をよく知らないせいもあるのだろう。とにかく、現代ハリウッド映画らしいリアルで理不尽で宗教的な映画であり、ボンクラ的にはvsティーガー戦だけでとりあえず満足いたしました。

祝・『赤い光弾ジリオン』30周年!

一時期は人生ほっぽってネットのファン活動に入れ込みまくった『赤い光弾ジリオン』、その放映30周年を記念して、これまで集めた小ネタを紹介する別ブログを立ち上げたのでご興味ある方はそちらもごひいきに。
https://blogs.yahoo.co.jp/zillion_archive_room

こないだ書いたタツノコ四天王ネタとかをよりディープにした感じでやっております。とりあえず、30周年の2017年中は続ける予定。
こちらのはてダのほうはこれまで通り、突発的に更新したりしなかったりだと思います。

沈黙 -サイレンス-

マーチン・スコセッシ遠藤周作「沈黙」の映画化を熱望している、という話はずいぶん前からあったらしい。
でもあれを原作にした時点で、どう考えてもウルトラハード拷問映画にならざるをえんよなー、と思っていたのだが、いざ完成して観に行ったら3時間近くものウルトラハード拷問大作となっていた。痛いのとか苦しいのとかが苦手な人は観てはいけない。
原作はけっこう古いのだが、さすが名匠スコセッシだけあって所々に現代人の目線を忍ばせ、原作をほとんどそのままに現代的なアップデートを果たしている。その象徴的な存在がイッセー尾形演じる奉行イノウエ=サマで、もうほとんどイングロにおけるクリストフ・ヴァルツのような異様な存在感で場をかっさらう。このイノウエ=サマは現代の有能なビジネスマンとして描かれており、「信仰」がテーマのこの作品において、その「現代的合理主義」の圧倒的説得力をもって主人公の前に立ち塞がる。その主張は、資本主義にまみれた我々にとって耳慣れたものだ。資本主義によってあらゆる価値観がハックされ、上書きされる現代。それを、遠藤の日本人論に忍ばせる形でスコセッシは観客に叩きつける。「信仰など時代遅れだ。単一の価値観はグローバル時代にそぐわない。合理的に考えろ。最終的に皆がWIN-WINになって、それのいったい何が不満なのだ?信仰など、貴様の自己満足に過ぎないのではないのか?」そう、イノウエ=サマは正しい。というか、それを是とする価値観の中に現代の我々は生きており、その価値観に反逆することの難しさ、生きづらさも、骨の髄まで叩き込まれている。
主人公ロドリゴの前に繰り返し登場し、彼を(そして神を)裏切り続けるキチジローはユダだ。そのユダをも救うはずの信仰はしかし、人々を苦痛に満ちた死へと向かわせる。キチジローは自らの弱さを何度も見せつけることで、彼もまた、図らずもロドリゴの価値観を揺さぶっていく。
まだまだ青臭いロドリゴと親友ガルペは繰り返し訪れる価値観の危機に対し、頑なに自らの信仰だけで対峙しようとするが、真綿を締めるようにその抵抗力は削がれていく。ガルペはその純粋さゆえに殉教する機会が与えられたが、より高い視座を持つロドリゴにはそんな甘美な毒すらも与えられない。そして「ごく近い未来のロドリゴ」として登場するフェレイラ。リーアム・ニーソンの非常にバツの悪そうな演技が、彼が「過去の(純粋な)自分」に対して吹っ切れていないことを雄弁に語るが、ロドリゴに対して反論していくうちに、彼もまた「神の沈黙」に対峙し、自らの人生を苦渋のなかに置いていることに気づかされる。
では「人を救う」ことが神や神に仕える者の仕事であり、「信仰」それ自体には意味がないのか?スコセッシは慎重に、単純なヒューマニズムに物語が回収されることを避け、原作とも異なるテーマへと作品を到達させる。
フェレイラ、そしてロドリゴが選んだのは、「人が、いかにして生きていくか」を問い続けることだったのではないか。
「神」の位置から観客の心理を惑わす映画音楽を封印したスコセッシの演出は、老いてますます切れ味を増している。そしてその監督の意気込みに応える、特に日本人キャストの素晴らしさ。イエズス会の話なのに英語?という瑕瑾があるとはいえ、考証においても、もちろんテーマへの肉薄においても、隠れキリシタンを扱った映画でこれ以上の作品が今後生み出されるとは考えにくい。将来長く語り継がれる映画となるであろう傑作。