沈黙 -サイレンス-

マーチン・スコセッシ遠藤周作「沈黙」の映画化を熱望している、という話はずいぶん前からあったらしい。
でもあれを原作にした時点で、どう考えてもウルトラハード拷問映画にならざるをえんよなー、と思っていたのだが、いざ完成して観に行ったら3時間近くものウルトラハード拷問大作となっていた。痛いのとか苦しいのとかが苦手な人は観てはいけない。
原作はけっこう古いのだが、さすが名匠スコセッシだけあって所々に現代人の目線を忍ばせ、原作をほとんどそのままに現代的なアップデートを果たしている。その象徴的な存在がイッセー尾形演じる奉行イノウエ=サマで、もうほとんどイングロにおけるクリストフ・ヴァルツのような異様な存在感で場をかっさらう。このイノウエ=サマは現代の有能なビジネスマンとして描かれており、「信仰」がテーマのこの作品において、その「現代的合理主義」の圧倒的説得力をもって主人公の前に立ち塞がる。その主張は、資本主義にまみれた我々にとって耳慣れたものだ。資本主義によってあらゆる価値観がハックされ、上書きされる現代。それを、遠藤の日本人論に忍ばせる形でスコセッシは観客に叩きつける。「信仰など時代遅れだ。単一の価値観はグローバル時代にそぐわない。合理的に考えろ。最終的に皆がWIN-WINになって、それのいったい何が不満なのだ?信仰など、貴様の自己満足に過ぎないのではないのか?」そう、イノウエ=サマは正しい。というか、それを是とする価値観の中に現代の我々は生きており、その価値観に反逆することの難しさ、生きづらさも、骨の髄まで叩き込まれている。
主人公ロドリゴの前に繰り返し登場し、彼を(そして神を)裏切り続けるキチジローはユダだ。そのユダをも救うはずの信仰はしかし、人々を苦痛に満ちた死へと向かわせる。キチジローは自らの弱さを何度も見せつけることで、彼もまた、図らずもロドリゴの価値観を揺さぶっていく。
まだまだ青臭いロドリゴと親友ガルペは繰り返し訪れる価値観の危機に対し、頑なに自らの信仰だけで対峙しようとするが、真綿を締めるようにその抵抗力は削がれていく。ガルペはその純粋さゆえに殉教する機会が与えられたが、より高い視座を持つロドリゴにはそんな甘美な毒すらも与えられない。そして「ごく近い未来のロドリゴ」として登場するフェレイラ。リーアム・ニーソンの非常にバツの悪そうな演技が、彼が「過去の(純粋な)自分」に対して吹っ切れていないことを雄弁に語るが、ロドリゴに対して反論していくうちに、彼もまた「神の沈黙」に対峙し、自らの人生を苦渋のなかに置いていることに気づかされる。
では「人を救う」ことが神や神に仕える者の仕事であり、「信仰」それ自体には意味がないのか?スコセッシは慎重に、単純なヒューマニズムに物語が回収されることを避け、原作とも異なるテーマへと作品を到達させる。
フェレイラ、そしてロドリゴが選んだのは、「人が、いかにして生きていくか」を問い続けることだったのではないか。
「神」の位置から観客の心理を惑わす映画音楽を封印したスコセッシの演出は、老いてますます切れ味を増している。そしてその監督の意気込みに応える、特に日本人キャストの素晴らしさ。イエズス会の話なのに英語?という瑕瑾があるとはいえ、考証においても、もちろんテーマへの肉薄においても、隠れキリシタンを扱った映画でこれ以上の作品が今後生み出されるとは考えにくい。将来長く語り継がれる映画となるであろう傑作。