機動警察パトレイバー 劇場版

てわけで、以前観たときにはあまり気に留めなかった部分が、いまの目で見ると、意図的な演出で裏打ちされていることに気付かされる。劇パトの帆場の目的こそ、「犯人の世界観を補強するためのテロ」だ。
ガル博士が「近代ロンドン肯定のための殺人」を唱えるように、帆場は「現代東京拒否のためのテロ」を仕組む。その手段にこれまた、聖書の一節を用いた「見立て」を用いるあたりや、どちらも「都市」に対する犯罪であるあたりなど*1、彼らはもう、ほとんど双子の兄弟にも見える。

「見立て殺人」の名作といえば、『そして誰もいなくなった』を筆頭に、『獄門島』とか『鉄鼠の檻』とか、イってしまった≒脱社会化した人物が、己ひとりの世界観を現実のものとするため殺人を犯す、というパターンが基本だろう。それをムーアの『ウォッチメン』では、十分に社会化された人物が、世界中の人々が望む世界を実現するため、大量の市民を虐殺した。その矛盾。
そして、本作の帆場(=後藤=押井)は、現代の東京を否定し、下町のノスタルジーへの思慕を表明した。
帆場=押井の「下町回帰願望」に支持がついたことは、同様のテーマを扱った『クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ モーレツ! オトナ帝国の逆襲』や、その巧妙なパクリの『ALWAYS三丁目の夕日』を見てもわかる。

人間は、自分が支持する価値観ならば、テロをも容認してしまうのだ。
だから、それをショーとして大っぴらにやることで、社会を転覆できる。
ムーアの『V/フォー・ヴェンデッタ』や『ウォッチメン』など、フィクションにしか登場しないこうした悪役には、巨大なカリスマがある。いやむしろ、個人の問題に終始するヒーローなどと違い、その時代を象徴する、真に「残る」キャラクターに成りうるのではないだろうか。この映画の帆場は、そういった時代を先取りする存在だったのかもしれない。

あと正直、キャラアニメとしては主役達が弱すぎると思った。作品の主要なテーマは後藤や松井の口を借りて語られる帆場のものだし、主役達の見せ場となる活劇が「すべてが終わった後」に始まるのはあまりに。

*1:同様に聖書の一節を「見立て」に用いた『セブン』は、対象は都市ではなかった