SFの文学性

ミステリの探偵小説芸術論に対して、SFにはあったのだろうか? と考えると、少なくとも本邦ではそーゆー運動はなかった気がする。理由はやはり、第一世代のSF作家が既に優れた小説家でもあったからだろう。星新一小松左京光瀬龍半村良筒井康隆など、他の文壇と比べてもまったく劣らぬ強力な作家たちは、(貪欲にも)最初から芸術をも目指していたと思われる。
SFの文学志向のピークは60年代における英米ニューウェーブ運動になるのだろうか。未来、宇宙、テクノロジーを罵倒し、人の心に潜むインナースペースを指向したこの運動は、個人的にはまったく受け付けられないのだが、確かに当時(人工衛星が打ち上げられ、急速に科学がSFに近づいた)の空気にはマッチしていたと思われる。ニューウェーブ以降のSFには勢いがなくなったと思うが、それを生き延びた作家には、確かに成長の跡がある。
現在、特に米国流ヒットSFはSFガジェットを駆使した普通のストーリーが多くなった。『エンダーのゲーム』以降のカードなんていま読むとハリー・ポッターのようだし、最近やたら量産されている宇宙史ものも、シェアード・ワールドの面白さから進歩していない。これは米国流エンターテインメントの文体にSFもうまく乗っかった状態と思われるが、そんな中でも、たとえば『限りなき平和』のような、ニューウェーブの影響を色濃く残し、しかも現代ならではのテーマを、最新テクノロジーと絡めて語る作品も登場している。
日本SFは拡散してしまい、いまその正体を見極めるのは難しい。日本にもホールドマンや、イーガン(こっちはオーストラリアか)のような、時代の先端を走る作家はいるのだろうか。もともと芸術指向の高い日本作家なら、十分英米にも対抗しうる可能性はあると思うのだが。……って、それはもしかして押井守なのか?