ドラクエは逆境から生まれたゲームなのか

【ゲーム語りの基礎教養:第一回】初代ドラクエRPGへの逆風の中に生まれた――“ドラクエ以前”の国内RPG史に見る「苦闘」の歴史
http://news.denfaminicogamer.jp/column03/game-gatari01


テレビゲーム黎明のダイナミズムを当事者に聞く「ゲームの企画書」シリーズが人気の「電ファミニコゲーマー」の記事。
ドラクエ登場前夜のテレビゲーム市場について、CRPGそもそもの登場から語り下ろす労作だが、特に"逆境"という表現に非常に違和感を覚えた。

 このように1980年代半ば、『ウルティマ』や『ウィザードリィ』の試みは、ヒット作に必要な「分かりやすさ」にたどり着けていなかった。そして、この路線はアクションRPGの波に押されていた。ということは、その中に登場した初代ドラクエは、CRPGブームに後押しされるどころか、「逆境」に立ち向かっていたのだ。


違和感の理由は、当時の空気について自分が正反対の印象を持っていたからだ。というわけで、当時の資料などを参照してこの違和感の正体を追ってみることにする。
話をシンプルにするために、時系列を整理し1985年10月時点でノンアクションのCRPGは「逆境」にあったのか?に問題を絞る。



1985年10月を開発スタートとしたのは、

  • ドラクエの発売が5月末
  • マスター提出が3月末ごろ
  • 開発期間が約5か月

から逆算して、開発開始が前年10月末ごろあたりと推定されるため。
ということは企画にGOの判断が出たのは9月〜10月くらいと考えていいだろう。


パソコンゲームの当時一番人気は『ハイドライド』と『テグザー』。これは自分も納得で、どちらも当時の我が家でも頻繁にプレイされたゲームだ。




月刊 ログイン1985年11月号(10月8日発売) 読者が選ぶTOP20



ここでは月間投票の3位と4位、『ブラックオニキス』と『ファンタジアン』に注目したい。
クリスタルソフトの『ファンタジアン』は同社の『夢幻の心臓』シリーズと表裏一体の関係で、
ウルティマ型フィールドにウィザードリィ型戦闘というドラクエでも採用されたシステムを持つ『夢幻の心臓』に対し、
『ファンタジアン』はその逆パターン、ウィザードリィ型のダンジョンにウルティマ型の戦闘を採用している。

成長にも戦闘にも戦略が求められる『ファンタジアン』の人気は、『ブラックオニキス』の人気を受けて登場した
続編『ファイヤークリスタル』ともども、当時のRPGプレイヤーがすでに「本格化、複雑化」の志向を持っていたためと考えられる。


もちろん、その傾向は国産パソコンゲーム史上最大のヒット作ともいわれる『ザナドゥ』以下、『夢幻の心臓II』『ハイドライドII』についてもいえ、
「本物」を求めるニーズに応えて登場した日本移植版『ウィザードリィ』のロングセラーにも繋がる。
元の記事にある「複雑さや情報量を減らす」方向性とは真逆なタイトル群であった、といえるのではないだろうか。


「複雑さや情報量を減らす」方向性は、この「3強」とも称されたタイトルたち、特に超高難度の「シナリオII」が登場した『ザナドゥ』に対する反動として、
のちの『イース』(1987年)などに結実したと考えていいだろう。
ファルコム版『ハイドライド』ともいえる『イース』はその同年に発売され、より複雑化する道を選んだ本家『ハイドライドIII』と人気を争うようになる。


ドルアーガの塔』から『ハイドライド』『ゼルダの伝説』へと連なるアクションRPGに関してはどうか?
確かにこの時点で『ハイドライド』が一番人気ではあるものの、3位『ブラックオニキス』、4位『ファンタジアン』との差はあまりない*1アクションRPGに「押されていた」とするほどの状況ではなかったと考えられる。


これらの事実を元に自分の印象を修正するなら、
パソコンでは1985年末の時点ですでにユーザーが成熟し、より本格的なRPGを求める段階に入っていた。
一方、ファミコンではまだノンアクションのCRPG自体が登場しておらず、『ブラックオニキス』同様の「わかりやすさ」が再度求められる段階だった。
といったところだろうか。


普段はあんまりこういうことはやらないんですが、以前どこかの個人ブログで書かれた「家庭用ゲームの歴史」的な記事がWeb上で非常に持て囃され、
多くの人の歴史認識を誤らせた故事を思い出して重い腰を上げた次第。
事実誤認などありましたらご連絡いただけると幸いです。




…で、終わってもいいんだけど、ここからちょっと余談。


上記の時系列でみると、パソコンゲームにおいて空前のRPGブームが到来した頃に、ドラゴンクエストの開発はスタートしている。
自らが編集者、ライターとして参加していた週刊少年ジャンプ月刊OUTの誌上でRPGを特集したゆう坊(堀井雄二)は、
そのブームの渦中で自ら熱狂し、またそれを広げる立場でもあった。その空気をファミコンにも持ち込もう、というつもりだったのではないか*2


また、1985年10月あたりにエニックス側がプロジェクトを承認した理由としては、ドラクエ同様やはりウィザードリィに大きな影響を受けた
ドルアーガの塔』がファミコンに移植され、大きなヒットを飛ばしたことが大きな要因の一つではないかと考える。
この移植版『ドルアーガの塔』の特筆すべき点として、その攻略本「ドルアーガの塔のすべてがわかる本」がベストセラーランキングに登場したことを挙げたい。



旬刊 出版ニュース1985年10月下旬号 全国ベスト・セラーズ調査(1985年9月期)


月間で5位となっている。


もちろんそれまで、ゲームの攻略本がベストセラーに顔を出したことはない。
当時の(多くはコンピュータやゲームに疎いであろう)経営層が『ドルアーガの塔』のようなゲームを切望する条件としては、絶好のタイミングといってもいい。
そしてこの本以降、「攻略本ビジネス」は俄かにクローズアップされ、
1985年と1986年は『スーパーマリオブラザーズ』の攻略本が2年連続年間ベストセラーのトップを獲得している。
開発費がハード性能の向上によって高騰しない「書籍」ビジネスでのヒット。後年、エニックスが出版を志す理由としても十分かもしれない。

1985年 ベストセラー30 (昭和60年)
http://www.1book.co.jp/001364.html

1986年 ベストセラー30 (昭和61年)
http://www.1book.co.jp/001365.html

*1:あまり意味はないが『ブラックオニキス』と『ファンタジアン』の投票数を足すと『ハイドライド』を大幅に上回る

*2:開発スタート時点ではザナドゥゼルダも出ておらず、ARPGブームはまだ来ていなかった