ゼロ・グラビティ

元旦に南町田IMAXで鑑賞。
考えてみれば、アルフォンス・キュアロンは寡作の作家だ。一躍ヒットメーカーに躍り出た『ハリー・ポッターとアズカバンの囚人』以降、『トゥモロー・ワールド』と本作しか監督作がない。もっとも脂の乗った40代において2作品、50代になって初の監督作が上映時間90分。
…というあたりで推して知るべしというべきか、『トゥモロー・ワールド』にしても本作にしても、その緊密度・完成度はほんとハンパない。
キュアロンは『トゥモロー・ワールド』を撮るにあたって、自分にSFは撮れないから、現実の物語として演出したという。それは映画史上に残る空前の長回し撮影による衝撃的な襲撃シーンなど、徹底したリアリズムに根ざした新世代のSF映画となって結実した。
そして本作。もはや長回しというレベルを超えた、延々ワンカットで映される「無限にオープンな密室劇」によって、またしても彼は「宇宙映画」を変えてしまった。
上映時間もそうだが、本作はとにかく要素がギリギリまでそぎ落とされている。劇中音楽以外に音楽らしい音楽もなく、キャストに至っては2人(登場人物はもう少しいるが、顔が見えた頃には死んでいる)、後半は完全に一人芝居だ。
キュアロンのリアリズム志向はある種キューブリックと通じており、『トゥモロー・ワールド』で開発した複数カットを自然に繋げる技術をさらに進化させ、一人にとことん密着したねちっこいカメラワークと計算された3D効果とで、「時間」と「空間」のどちらも観客と共有させる映像マジックをみせる。脚本としては予告編から想像される以上の展開は一切ないが、そんなことは、この豊穣すぎるディティールの説得力の前にはまったく問題とならないだろう。3D作品としての奥行きを生かせる世界*1は=宇宙、「現代で」宇宙にいる人間は=宇宙飛行士、宇宙飛行士は常に外部と通信する必要がある=一人芝居OK!…という発想だったかはともかく、この作品におけるスリルに溢れた「叙事」のつるべ打ちが、そのままヒロインの内面を露にしていく「叙情」へのアプローチとなるあたりは、キュアロンの映像作家としての熟練を感じさせる。『アバター』同様に『ゼロ・グラビティ』以後、という言葉が生まれるかはわからない*2が、少なくとも現時点でもっともリアリズムで宇宙を描いた映画という意味で、『2001年』のスピリッツを2000年代に受け継いだ初めての作品と言える。宇宙好き、SF映画好き必見。
以下余談。
ところで、この『ゼロ・グラビティ』はこないだの『キャプテン・フィリップス』と意外なほどよく似ている。どちらもいわゆる「パニックもの」「ディザスターもの」の系譜であり、双方とも「観客を当事者として映画に巻き込む」ライド型アトラクションとして演出されてる。こちらのほうが企画としてわかりやすいという一点でブロックバスターとして劇場にかかっているが、ひたすらリアリズムで押し切り、観客が考える暇をほとんど与えない体感型映画という点*3で、グリーングラスとキュアロンの採った方法論は非常に近い。
「一人だけのサバイバルに密着する」という似たようなシチュエーション、似たようなアプローチだけに、双方の演出的な違い、特に、カットの切り方について真逆ともいえるアプローチが興味深い。『キャプテン・フィリップス』はカットを(ボーンシリーズほどではないにしろ) かなり細かく割って時間軸の緊張感を持続させたのに比べ、『ゼロ・グラビティ』は異常な長さのワンカット撮影のつるべ打ちでリアリティを優先させた。そのワンカット撮影はホントに技術的に恐ろしく高度でその効果も凄まじいものがあるが、それだけに、自分みたいなスレた客からすると、逆に数少ないカットを切った瞬間に「あ、カット変わった」と必要以上に意識されてしまう*4という、また別の問題が現れたように思う。いやー実にイヤな客ですね俺。
と相変わらずグダグダですが今年もよろしく。

*1:でなおかつ、『アバター』であまり使われていない場所

*2:同じく独創的な傑作『トゥモロー・ワールド』が興行的にコケ、のちに続く作品が本作までなかった事と考え合わせても

*3:それだけに、『キャプテン・フィリップス』をIMAXで観なくて本当に良かったと思った。あの映画をあの音響の臨場感で見るのは身の危険を感じる。いやマジで

*4:観客側が「ここでヒキの画が欲しいはず!」と待ち構えていたりすると特に