007 スカイフォール

なんとびっくり、『カジノ・ロワイヤル』『慰めの報酬』に続く新生ボンドシリーズと思われた本作、実はこれまでの「新人スパイ、ダブルオーセブン」のストーリーをまたドブに捨て、「引退寸前のスパイ、ジェームズ・ボンド」の死と再生を描くまったくの別路線だった。
主演がダニエル・クレイグになってからの007は、ジェイソン・ボーンシリーズの影響が色濃い、徹底して「叙事」に寄った、ある種とことんドライでハードボイルドなアクション映画になって我々の前に登場した。そして本作は、やはりハリウッドのヒット映画『ダークナイト』の影響を強く感じる「意味論」映画とでも言うべき作品となっている。そして、『ダークナイト』のあと、バットマンの「死と再生」を描こうとした本家クリストファー・ノーランは『ダークナイトライジング』でそれをしくじり、本作のサム・メンデスが見事それをやり遂げてしまった。
メンデス監督がなぜそんな本歌取りができたのか?というと、ひとつには、やはりノーランと同じくイギリス人で、かつクールな視線で作品を作り上げるメンデスの資質がこのテーマと合致したから、というのもあるだろうし、もうひとつは、「力と悪」を描く『ダークナイト』はともかく、「死と再生」というテーマをやるにあたって、アメリカが舞台のアメコミヒーローであるバットマンに比べて、イギリスのスパイである007が「いま、ここ」のヒーローとしてそのテーマにまさにうってつけのタイミングだったから、と思える。
思えば、『ダークナイト』は実にアメリカ的な話だった。
コミュニケーションの取れない「純粋悪」に対して、「力を持つ」はずのヒーローが無辜の市民の盗聴まで行い、結果悪を撃退しはするものの、結局おのれの正義を認めてもらえない。『ダークナイト』はその「いまのアメリカ」のカリカチュアだ。
対して、本作『スカイフォール』は実に、実にイギリス的だ。
死せる大国イギリスの、時代錯誤とも思われるスパイ組織、そこでもはや第一線に立てないロートル工作員。まさに、何重にも「幕引き」が求められるその状況こそ、「死と再生」を描くにあたって最高の題材でなくてなんだろう!
サム・メンデスもそう思ったのかどうか、新人スパイとして再生したはずのクレイグ=ボンドは年齢相応のオッサン工作員に格下げされ、ボンドガールは結局登場せず、彼を賛美する「例のテーマ曲」は後半のあるシーンまで温存される。
実は本作、複数の作者が長年描いた多数のエピソードから選び放題なバットマンと違い、エピソードが限られる007で「再生」を描くにあたり、ちょっとした反則を行っている。それは宮崎駿*1ルパンシリーズにおいて使った反則と同じ、「シリーズ主人公に後付けの過去を与える」手法*2で、おかげでルパンシリーズは映画2作目にして終わってしまった感バリバリになってしまったのだが、本作ではそこからの再生がこれ以上ないほど(意味的に)執拗に描かれているおかげで、次の作品に素直に期待できるリスタート作品になっている。ものすごく上手い。
それにしても、「M」が女性になったのは時代の反映だが、ジュディ・デンチの降板はまったくの偶然だったはずだ。女性司令官をイギリスそのものと同一に捕え、そのイギリスの死と再生を描く本作は、『ダークナイト』が「アメリカの現代」を描いた傑作であったのと同様に、「イギリスの現在」を鮮やかに切り取った傑作として007映画史上に名を残すと思う。007好きでなくとも必見。

*1:日本版007として登場した

*2:ヒーローがもはや中年になっている点も同じ