ダーティ・ハリー

すべての幼稚園バスジャックの元祖、初代『ダーティ・ハリー』をものすごい久しぶりに。

イーストウッド若い! 『グラン・トリノ』の死にそうなよぼよぼ爺さんは別としても、自分が物心ついたときにはもう充分初老だったから、全盛期のイーストウッドはホントひさしぶり。

テロものとして観たが、早々に犯人もバレてしまうし、その犯人の手口もかなり行き当たりバッタリだから、お話的に参考になるところはあんまない。が、メシ食いながら44マグナムをぶっ放し、キメキメなポーズで橋から飛び降りるハリーとか、「歌わねぇとママをブッ殺すぞ!」とムリヤリ子供に歌わせる(自ら率先して「ろうろうろやぼー」と歌ってみせるのがまたキてる)スコルピオの異常者っぷりはいま見ても素晴らしい。

1971年のこの当時は、アメリカの個人主義がある種完成の域に達していた頃だと思う。「個人」を尊重するから犯罪「容疑者」をうっかり裁くことはできず、「個人」を尊重する刑事が自らの正義を銃で執行する。そういう時代。のちのスタローン、シュワルツェネッガー(俺ら世代のヒーロー)の原型となる、行動し、ひとりでカタをつける「強い個人」としての職業的ヒーローの登場。

イーストウッドがそれまで演じたマカロニ・ウェスタンのヒーローたちは、なんらの社会的抑圧を持たなかった。行動原理はカネであり、ひとつのヤマが終われば、次のヤマを求めて、街を転々とした。
ハリー・キャラハンはどうか。彼は警官であり、サンフランシスコの事件を追う。市長と衝突し、気に入らない相棒と組まされ、任務を外される。抑圧だらけの世界で、自分とマグナムだけを頼りに社会悪に立ち向かう。そこに悪に対する憎悪や、称賛や実利を求める心はない。あるのはただ、強い職業的倫理、プロフェッショナルとしてのこだわりだ。

ダーティ・ハリーとは、個人がプロとして自立することのかっこよさを描いた、70年代ならではのプロフェッショナル賛歌ともいえる。

しかして現代は。

ということで↓に続く。