機動警察パトレイバー 劇場版2

こんどは劇パト2が到着。なんかぜんぜん見覚えのないシーンばっかりだったので、実は初見だった模様。
で、かなり面白かった。一般性という意味では押井娯楽映画の頂点、といっていいと思う。
これが1993年の作とは、押井監督の先進性は凄まじい。9.11以後こそに、その真価が発揮された映画だと思う。

テロに飛行船を使うのはトマス・ハリスの『ブラック・サンデー』を思わせ、実はいない敵機で管制を翻弄するのもルシアン・ネイハムの『シャドー81』を彷彿とさせる。あと『ジャッカルの日』とか。過去の様々なテロ、ハイジャック作品などをうまく咀嚼し、脚本に生かしている。このへんは押井守より、伊藤和典のセンスかも。

あとこの話、なにかに似てるなー、と思ったら『亡国のイージス』だった。
イージスの名台詞「よく見ろ、日本人。これが戦争だ」は、まったくこの映画のためにあるといっても過言ではない。「戦争」状態が「手段」であるイージスに比べ、それ自体が「目的」である劇パト2のほうにこそ、このフレーズはふさわしい、と言ってもいいくらいだ。
その悪役である柘植の思想(例によって後藤と、今回は荒川が代弁)も、これもこないだ観た『逆襲のシャア』と激しくカブる。逆シャアが1988年だから、前作の帆場から今作の柘植に至る間に、押井監督が悪役にシャアの思想を注入したのかも知れない。また、『亡国のイージス』はトミノ信者の福井晴敏の作だから、この2作は同じ『逆襲のシャア』の子供、とも言えるかも。

「現代東京での戦争ごっこ」は脚本の伊藤和典はじめヘッドギアの面々も大好きだとは思うが、「自衛隊のクーデターによるテロ」をここまでリアリズムで描き切れたのは、やはり前作で「現代の東京憎し」を表明した、押井守の情念の力が大きい。本気で現代の東京をぶっ壊したいから(あと兵器が大好きだから)、これほどまでに緻密に「戦車のいる日常」を描き得たのだと思う。
また、あれほど「構成」の映画だった劇パト1のあと、高度にレイアウトされた(レイアウト担当に今敏が入っている)カットの連続によって、本作は「構図」の映画に完璧にシフトできている。明らかにそれまでの押井作品にはなかった構図力を獲得することで、作品テーマである「東京に"戦争"を持ち込む」を、セリフや段取りを端折っても、ただカットだけでも表現できている。コレはスゴイ。
ここまで即物的な「現代のリアル」に肉薄しながら、攻殻以後、光瀬的哲学テーマにいってしまったのは残念だ。

反面、後年の押井守の課題の萌芽も、すでに見て取れる。
高い構図力に裏打ちされた「状況」「都市」の描き方が完璧な反面、人間に対する興味の希薄化がものすごい勢いで進行し、「最後くらい人間ドラマとして終わらせないと」という要求があったのかどうか、ラストを「しのぶの物語」として〆てしまった。なんじゃこりゃ。
こーゆー展開だと、柘植はしのぶと「東京の"戦争"を分かち合いたかったのだ」とも読めてしまう。オシイ監督、そんな解釈は本意じゃなかろうに。このへん、やっぱなんだかんだいって人間ドラマを得意とするトミノ監督にはぜんぜん及ばない。

この2人の関係描写も、いま思うとギリギリだ。手の演技だけで、二人が精神的にも肉体的にも深い仲であったことを伺わせるが、そのあとのヘリ内の描写とか、ただの「オイタがばれた不倫カップル」にしか見えない。
その延長に『スカイ・クロラ』があると思えば、あの映画の異常なまでのエネルギーの欠如も理解できる。やはり、恋愛とか人間とかを扱う作家ではないのだ。

主役の座をしのぶにあけ渡してしまった(ラストで犯人と対峙することすらさせてもらえない)野明の「わたし、レイバーが好きなだけの女の子じゃうんぬん」のセリフもひどい。逆ギレするしのぶ、後藤も含め、「パトレイバー」という作品に対する三行半にも見える。なるほど、だから『WXIII』なのか。
なんだかんだいって、きちんと「冴子のドラマ」として透徹し、刑事物と怪獣物を高いレベルで両立させている『WXIII』とくらべ、本作はストーリーに不満がある。事件の「状況」は素晴らしいが、状況が終わってしまうと映画が「持た」ない。とってつけたような後藤の台詞も白々しすぎ。押井守の次作が、主役が仲間とか棄てて電脳世界にバハハイしてしまう『攻殻機動隊』なのは、その意味で順当な流れだったのかも。

あとちょっと思ったけど、いまやってる新エヴァ(まだ「序」しか観てないが)って、前作よりずいぶんと「都市描写」に力を入れてるようだが、もしかしてこの頃の押井イズムを意図的に継承しようとしてるんだろうか。気になる。