「人生」ゲーム

バクチが打てるのもそろそろ最後っぽい。
バランス未調整なクソゲー「人生」をプレイするにあたり、「残り時間」は掛け金となりうる。持たざる若者でも時間はあるので、初期装備は貧弱でも、残機をいっぱい持っている状態。残機を潰してマップを覚えるとか、カネを溜めるとかができる状態。
残機がなくなってくると、復活のチャンスは限られてくる。また、パワーアップに成功したら、それはそのまま掛け金となるので、死んでそれがパーになるのを恐れるようになる。親が官僚だとか社長だとか、元々イケメンだとかの初期装備に恵まれたチート組も、やっぱりパーになるのを恐れる(それでも、美人やイケメンはリカバーしやすい能力が与えられている)。バクチは打たれなくなっていく。
社会システムにとりもっとも厄介なのは、掛け金も持たずにバクチを打つ奴だ。彼は、賭場を破壊することすら厭わない。失う物は、すでに失いつくしている。秋葉原連続殺人とかは、そーゆー奴が起こしたちゃぶ台返しだ。
「幸せ」とは、残念ながら相対的なものであることが知られている。自分より持てる奴がいる、ただそう認識しただけで、彼の手から幸せの鳥は逃げてしまう。それを程度問題と捉えたとしても、普通にどうがんばったところで全体の50%が「幸せ」の飽和点だ。世界の最低半分は、不幸に甘んじるしかない。
最大多数の最大幸福を目指すなら、世界を分断するしかない。相互の関係性を失わせ、「一対多」という非対称な関係に自己を置くしかない。これは、TVのシステムであり、宗教のシステムでもある。そしてもちろん、洗脳のシステムである。
結局のところ。
いかにして、バクチの席を中座したままパーティを楽しめるか、というゲームのような気がしてきた。