批評の不在 TVゲームの場合

批評が成立するための条件を考えてみる。単純化のため、ここでは批評者もその受け手(読者)も個人であると仮定する。

  1. 批評対象となる作品が存在すること
  2. 批評者が、作品に多かれ少なかれ接していること
  3. 批評に受け手が存在すること
  4. 言語化されるなどして、明確に批評であると受け手に理解できること
  5. 同様に、批評の内容が受け手に理解できること
  6. 批評の内容が、批評者個人のオリジナルな視点であること
  7. 批評の内容に、受け手がある程度以上の正当性を認めること
  8. 批評者へのなんらかのフィードバックが期待できること

後ろのほうはなんとなく怪しいが、まぁ、俺にとって、批評が「成立」するとはどーゆーことか、を定義するならこんなトコだろう。
で本題。
単なるファントークや居酒屋談義レベルからなかなか脱しない、「批評不在」の最大ジャンルをあげるなら、それは「プロスポーツ」の世界ではなかろうか。芸能の世界、たとえばJ-POPですら成立している批評も、なぜかプロスポーツではとんと見かけない。いや、ひとつ例外があった。プロレス(に類する格闘技全般)だ。プロレスは、なぜかねっとりと語る人が多く、批評が成立している。と、考えると、実はプロレスはスポーツではなく、芸能ジャンルに属するのでは、とも思う。
プロレスとそれ以外のスポーツはどう違うのか? 「解説」と「批評」はどう違うのか?
「解説」には1の視点がない。試合は「作品」だろうか? ここが、プロレスとその他のスポーツを分け、「解説」ではなく「批評」を成立させる、プロレス特有の価値観だと考える。この価値観を批評家と受け手が共に持っていない場合、批評は成立しえない、と言うこともできそうだ。
つまり、プロレスはある種の様式を踏襲した芸能であり、「作品」として試合展開の巧拙を「独自の視点で」批評することができる。だが、その他のスポーツは「筋書きのないドラマ」であることが求められ、試合展開の巧拙は客観的な「それは勝利に結びつくのか」の単一視点でその都度「解説」される*1
TVゲームはどうか。
テキストを読むだけのエロゲーならともかく、体験ベースのTVゲームの場合、リストの2番における「作品」は、その批評者が接した時点のものでしかない。受け手がプレイした時点では、違う作品となっている。すると、7番が成立しなくなる。別の試合をネタに2人が盛り上がれるか否か、という問題だ。クロレビ問題の根本でもあり、ニコニコ等の解説動画が人気になる理由でもある。「批評」には前提として、作品の同一性が求められる*2のだろう。
雑誌『ゲーム批評』は、ここにチャレンジした。長時間プレイし、ゲームを把握してから評価することで、「作品」の定義を「ゲームソフトそのもの」まで広げようとした。結果は、無残なものだった。ユーザーの多くは、ひとつのゲームをそんなに長くプレイするつもりはなかった。開発者は、意図した多くのバリエーションがプレイされないまま、「ゲームソフトそのもの」を定義されたことに失望した。
まとまらないが、ここでTVゲーム批評の成立するフィールドを考えてみる。
多くのMMORPGを支えているいわゆる「廃人」たちは、「作品」に対して同じ前提を抱えている。これは、批評を生み出すことのできる土壌だ。誰もが同じ体験をするエロゲー東浩紀という批評家を呼び寄せたように、近い将来、ネトゲ廃人の批評家が現れるのではないだろうか。TVゲーム批評のスタンダードが生まれるとしたら、いまのところ、そこが最も有望な気がする。
ので、誰か4649。

*1:そう考えると、プロ野球で「バントや盗塁ばかりで勝って恥ずかしくないのか」なんてのは多分に「批評」寄りの意見だ。

*2:映画の完全版論争が起きるのは、ここが原因。