「読者への挑戦状」と文学性、ゲーム性

木々高太郎の探偵小説芸術論は松本清張をもってその完成を見たという。推理小説における文学性はおかげで非常に重視されるようになり、その反動が、島田荘司以降の新本格ブームとなったわけだが、新本格もなにやらキャラゲーならぬキャラ小説化している昨今、ゲーム性と文学性について少し考えて見たい。
島荘が久々に放った「読者への挑戦状」を圧倒的人気で迎えたのは若年層だった。言ってみれば、そこにはまさしくゲームのような(まさしくスポーツのような)競技性があった。競争を娯楽と考えられるのは若いうちだけだ、とするなら、「読者への挑戦状」もTVゲームもまさしく若者文化の産物である。
TVゲームにおいてもっとも「読者への挑戦状」に近いのはパズルゲームだろう。推理小説の定義は「謎の論理的解明に重きを置く文学」であり、そのもっとも純粋、かつ古い形式である本格が「パズラー」と呼ばれるのと同様に、パズルはTVゲーム以前(さらに言えば推理小説以前)から存在していたクラシカルなゲームだ。
黎明紀において、パズルゲームとアクションゲーム(こちらはスポーツ的要素が強い)、またそれらの融合であるパズルアクションが多いに持て囃されたのは、その高度な競技性によるものといえる。もちろん、その直後の流れであるアドベンチャーゲームに至っては「読者への挑戦状」の連続なのだから、ここまでは順当な進化といえる。
ではTVゲーム業界に一人の木々高太郎(または松本清張、または連城三紀彦でもいい)は出たのだろうか? あえて探すとすれば、ゲーム性とストーリー性をそれぞれ追求した『メタルギア』を生んだ小島秀夫だろう。だが残念ながら小島秀夫が高太郎や連城のように直木賞、また清張のように芥川賞を取ったという話は聞かない。賞を取りゃエラいってものでもないが、文学賞レベルの作品の持つ「異常さ」と程遠いのはイカンともしがたい。
TVゲームにおいて不幸なのは、その芸術性が確立される前に、個人の資質ではどーにもならないレベルに作品が肥大化してしまったことだ。極端な話、直木・芥川レベルのシナリオを持ったゲームが出ることは(個人の資質なのだから)時間の問題とも言える。だが、ゲーム性に関してはそう簡単にオリジナリティと完成度を両立させることはできない。と言うか、基本的にオリジナリティの高いゲームは完成度は低くならざるを得ない。そこを両立させようというクローバースタジオは「本格」ゲームを生み出すだろうが、それと直木・芥川レベルのシナリオを両立されるのは確率的に言ってもかなりありえそうにない。
探偵小説芸術論は論理性と芸術性の両立を目指す運動だったが、ゲーム性とストーリーの両立を志す人間は、ゲーム芸術論運動に参加する必要がありそうだ。といっても当時は乱歩を筆頭に実作で圧倒的に強かった反対派との争いが、芸術派の作品レベルを後押ししたが、いまのゲーム業界は実作者同士が遣り合う機会すらないのが悲しい。