フューリー

ブラピが第2次大戦の戦車小隊を率いるというアレ。当時はガルパンとかのブームで熱血戦争映画かと思ってたら、実際はかなり宗教色の強いイマドキらしい哲学的な内容だった。
話の縦軸としては、観客の目線として小隊に配属される若者(しかもご丁寧に実戦経験がなく、観客同様に人殺しを忌避する現代人のようなメンタリティを持っている)の目を通した戦争の真実と、その成長物語にもなっている、というある意味王道、テッパンの物語になっているのだが、横軸として「戦争における神の立ち位置」とでもいうべきキリスト教文化圏ならではのテーマが据えられ、それらしいモチーフを散りばめながら、メインストーリーに異なる意味づけを与えている。
中でも、画面に繰り返し繰り返し登場する磔刑と十字架のイメージは強く印象に残る。ストーリーの必然性があるからこの画面なのか、こういう画面を見せたいからこういうお話なのか、は常にあいまいで、作品はところどころで幻想的でさえある。
ラストシーン、十字路にて果てたフューリー号は、その胎内から一人の男を脱出させることでそのスクラップ化=死に意味をもたせ、実質的な復活を遂げる。男だらけの世界から処女懐胎ならぬプロ童貞として生還(生誕)する彼は、ブラピが持っていた「父なる〇〇」を継承する者だ。そのためにこそ、彼の戦友たちと多くのSSは死なねばならなかったし、十字路のど真ん中に地雷はあったのだ。
様々な意味で非常に現代的にアップデートされた戦争映画だが、なにも戦争映画でまでキリスト教を考える必要はないではないか、と思ってしまうのはたぶん自分が製作者たちの文化をよく知らないせいもあるのだろう。とにかく、現代ハリウッド映画らしいリアルで理不尽で宗教的な映画であり、ボンクラ的にはvsティーガー戦だけでとりあえず満足いたしました。

メッセージ

こちらもまた、非常に内省的な映画である。平和的なファーストコンタクトを描いた生真面目なSFとして『コンタクト』と比べる向きもあろうが、「未知と宇宙とに対峙する人類のアイデンティティ」としての個人の信仰が描かれた『コンタクト』と異なり、こちらはその「未知と宇宙」が単なるガジェットとしてしか登場しない。そこで描かれる異星人像は、ビジュアルこそ『ミスト』を思わせる禍々しい姿のワリに、その行動の動機はわかってしまえば拍子抜けするほど、合理的かつ単純なものだ。
つまり今作、あの『インターステラー』がそうであったように、徹底的に「人間」にしか興味がない作品なのだ。そのため、手の込んだタイムパラドックスを仕込んだラストシーンにしても、「ああ、こんな反則をやろうとしたらSFにするしかないよね」「でもこれって、基本的には泣かせアイテムオブ泣かせアイテム"死者からの手紙"の未来バージョンじゃね」という醒めた感想になってしまった。端的に言えば、「すぐれたSF」ではなく「すぐれた感動もの」として作られた作品であり、現代の観客の感動のボタンを押すようチューニングされたSFという点で、細田守版『時をかける少女』あたりと同列に語られるべき映画といえる。
ところで今作、映画の前に同じ監督の『ブレードランナー2049』の予告が流れた。『メッセージ』本編でも見せてくれたように、ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督は「モノ」に対する強いフェティッシュを持った、まさにリドリー・スコットと同じ資質を伺わせる映画作家だ。その監督の手がけた『ブレードランナー2049』の予告はやはり素晴らしく、あまり期待していなかった同作に対しての期待度はかなり上がった。どういう物語嗜好を持つ監督かを見極める意味も含め、10月の公開を正座して待ちたい。