才能とか努力とか職能とか

仕事に対して、努力するのは無駄なことか。
無駄な場合もあるし、無駄にならない場合もある。前者と後者を分けるのは、努力が「褒賞」「職能」に還元されるかどうか。
身も蓋もない言い方をしてしまえば、褒賞を得られるかどうかは時の運だ。ならば、職能に結びつかないタイプの仕事を努力するのが、「無駄」ということになる。
努力と才能は関係があるか。
才能を「向き、不向き」と言い換えるなら、誰にでも才能の多寡はある。しかし、ほとんどのサラリーマンにおいて求められるのは、絶対的な「才能」ではなく、相対的な「職能」だ。
つまり、芸術家やらクリエーターやらでもない限り、才能は求められない。また、そのレベルで必要な才能は努力ではどうにもならない。職能の範囲を超えた仕事を相手に、努力に努力を重ねた果てに「俺には才能がなかった」と気がついてしまう人の絶望には深く同情する。
「職能」とはなにか。
職能とは理屈(セオリー)の集合といえる。なんらの理屈も得られない仕事は、職能に寄与しない。
どこかのおっさんが「理屈はあとでついてくる」とかいうかも知れない。そこから先は、確率の世界だ。理屈があとからついてきたことが、どれだけあるか? 目がある、と思った人は手持ちの人生をそこにツッ込めばいい。そういうギャンブルだ。
職能さえ持てば普通の仕事はできる。野球選手とかミュージシャンとかを目指していないのなら、いまその仕事をしている人程度の職能を、どうすれば獲得できるか、を考えてみればいい。さほど難しくはないはずだ。
「なんでもいいから努力しろ」vs「自分の才能を発揮したい」という戦いは、どっちも職場と仕事の関係を見失っているような気がしなくもない。