ケータイ小説的。 "再ヤンキー化"時代の少女たち

ケータイ小説にはてんで興味はないが、同著者の『タイアップの歌謡史』『自分探しが止まらない』はいろんな人にムリヤリ読ませたりしてるので、その延長線上で。
で、いきなりだがこの本、「ケータイ小説」についての本ではない。もっと売れそうなズバリのタイトルもありそうだが、以前の本もその傾向があったのでこれは速水氏の趣味なのかも。
ではなんの本か?というと、やっぱりこれまでの著書同様、個別のコンテンツを腑分けし、そのバックボーンをひたすら掘り下げ、「ジャンルの価値観」を暴く本になっている。今回そのターゲットは、副題のほうにある「ヤンキー」文化だ。
面白いのは、ケンカとバイクに明け暮れる男ヤンキーの世界に比べ、ここで明かされる女ヤンキーの世界はずいぶんと内向きであることだ。男ヤンキーに必須の(だからホモフォビアとも言われる)「ダチ」の存在が綺麗さっぱりなく、ひたすら自己の内省に、またその補償としての依存的な恋愛にと向かう女ヤンキーの姿は、日本的な暗い情念を感じさせこそすれ、「ヤンキー」という言葉からイメージされるアッパーな反抗精神とは無縁だ。
その「ヤンキー」と「ケータイ小説」を、速水氏は浜崎あゆみ、マンガ『ホットロード』『NANA』、実録モノのベストセラー『だから、あなたも生き抜いて』、雑誌「ティーンズロード」の投稿欄、郊外型書店の売り場構成、と一見バラバラな点を繋いで*1ゆくことで、見事な「女ヤンキー通史」として読者に提示する。
特にユーミンの「中央フリーウェイ」とあゆの「SEASONS」の歌詞を並べて逐語的に解読を試みる下りはとてもスリリングで、東浩紀のいう「動物化」同様の作用が、女ヤンキー文化においても同時に起こっていることを示唆するようでとても興味深かった。また、以下の点で先日読んだ『テヅカ・イズ・デッド』と同様のスタンスになっているところも、同時代性*2を強く感じさせて面白い。

  • そのジャンル特有な「リアル」の源泉を突き止める
  • 「これはマンガではない」「これは小説ではない」と蔑まれる、あるジャンル内の「被差別文化」を正しく評価することで、ジャンルを活性化させ、行き詰まった批評の裾野を広げることができる
  • 物語性の解体(いわゆる「大きな物語の消失」「動物化」)はジャンルの断絶を生むが、それは物語の外部化――読む側のリアル世界において、(文脈が)補完される

他にも、『テヅカ・イズ・デッド』の「ジャンル平面」モデルを応用すると、マンガ/本/ケータイ/歌謡曲と異なるメディアの「女ヤンキー」ジャンルの相互関係がわかりやすいんじゃないかとか、たまたま読んだこの2冊からいろいろ発見があり、その意味でも面白かった。
惜しむらくは以前の著作同様、本の〆がはっきりしないところだろうか。とはいえ、これらの著作は「現在」に繋がって終わっているので、その「通史」はまだ終わっていない、ということかも知れない。*3
思想地図とかもちょっと読んでみたくなった。

*1:その「点」が必ずしも1対1対応ではないところは、ツッコミを受けるところかも

*2:はてな性?

*3:「いまここ」までの歴史と、過去の歴史を扱う人を、それぞれ「評論家」「歴史家」と呼ぶのかも?