『ラブプラス』『ドリームクラブ』と「ボッコちゃん」、そしてピーター・モリニューの野望

案の定、一部の層に超大人気な『ラブプラス』。いろんな意味で21世紀版『ときめきメモリアル』(1994年)だが、ちゃんと『どこでもいっしょ』(1999年)の「自分の趣味を反映した、自己の分身であるキャラを愛する倒錯した構図」とそのキャラを常に確保し携帯する『ミザリー』的所有願望、アーケード『アイドルマスター』(2005年)の「リアル」を侵食するキャバメールとセクハラタッチに、『nintendogs』(2005年)の「代替現実の窓としてのモニター画面」と「終わらない日常賛歌」とを踏まえ、完膚なきまでに出口のないゲームに仕上げてきている(ようにみえる)。
最近ギャルゲー界隈をにぎわせたもうひとつのビッグタイトル『ドリームクラブ』がまさかのオタコーラスなど「現実」批評を強く感じさせる作品だったのに対して、『ラブプラス』は本気だ。そこに「現実」が介在する余地はない。というか、「現実」との対決姿勢すら感じる。『電波男』のもっとも忠実、かつ理想的なフォロワーといえる。例えるなら、作品としての「ボッコちゃん」が『ドリームクラブ*1、登場人物としての"ボッコちゃん"が『ラブプラス』だろうか。
ここで気になるのは、モリニューが開発中と噂の『Milo』だ。
nintendogs』が「犬」だから言い訳でき、『ラブプラス』が「ギャルゲー」だから目を瞑れた、「ボッコちゃん」に正しく比肩しうる代替人間サービス。マイロ君とガールフレンドが画面の前でいちゃつき、プレイヤーが一時忘れ去られたら、また、マイロ君と彼女が子供を連れてきたら、はたまた、ある日見知らぬ男が画面にあらわれ、マイロ君の葬儀日程を告げたとしたら、あれだけ強力な「代替現実感」をもつ『Milo』だけに、プレイヤーは果たして、正気でいられるだろうか。そして、単なるプログラムと心中するプレイヤー*2を生み出すことこそが、現代のマッドサイエンティストピーター・モリニューの自身すら気付かない役割なのではないか、とまで思える。なんだかんだ言って、結局21世紀らしい世の中になっているのだ。いま。

*1:そういえば「ボッコちゃん」自体、酒場で男が女に貢ぐ話だ

*2:「一緒に死ぬかい」「一緒に死ぬわ」