「勉強できると叩かれる」ロジック

ということで、どーも村で話題のネタらしく。
理由はいくつか考えられるが、個人的には「理解できない人が叩かれる」ロジックの変形ではないか、と。
「勉強できる人」を叩くのは「勉強できない人」である可能性が高い。勉強できない人は、当然だがいろいろな事柄が理解できない。理解「する気がない」んじゃなくて、文字通り、理解「できない」のだ。未来完了形だとかフーリエ変換だとかガウスの公式だとかが。うげ、学生時代のヤな記憶が…。
ともあれ俺含め、世の勉強できない人は、なぜ自分がそれらを理解できないのか、「バカだから」以外に説明のしようがない。「なぜわからないか」を説明できるくらいならまだ希望はあるが、説明できないレベルになってきたらもうお手上げ、そのレベル以上の理解を断念せざるを得ない*1。そのときの理解レベルが他人より低いと、バカ呼ばわりされる。ちくしょうめ。
単なる僻みを別とすると、ある程度以上レベルの離れた「勉強できる人」は、「勉強できない人」にとって、もはや共感の対象ではない。だって、彼/彼女は「俺の理解できないことを理解してる人」=「俺の理解の及ばない人」だもん*2。世のいわゆる信者論争と同じく「自分が理解できない人を叩く」ロジックが、ここで発動する。出る杭は打たれるらしいですよこの島国では。
ついでに書くと、スポーツやら芸術方面やらでは「理解」の壁はたいてい発生しない。共感の輪から逸脱しない。ケータイ小説叩きや村上隆叩きは、その内容ではなく、その「評価」が理解できない人によってなされる。
つーわけで。
極私的な処世術としては「他人を慮る≒無理やり共感」ではなく、「そーゆー人もいる」と理解すれば万事OK。「自分が理解できないロジックで動く人もいる」と思えるかどうかだけで、人の世界観はまったく違ってくるだろう。それを精神的な切り離しだ、と思う人は、その他者のロジックを理解すべく努力すればいい。場合によっては、「理解できるロジックで動く人」になるかもしれない。ただ俺は、「他者の行動を手前勝手なロジックで分類するヤツ」がだいっ嫌いだ。

*1:さすがにこれは誰にでも経験があるだろう

*2:このロジックは逆もまた真で、「俺の理解できることを理解できない人」でも同様。だから「勉強できる人」が「勉強できない人」を叩く構図も存在する。…うー、また嫌な過去を思い出しちまった…