日曜討論「相次ぐ通り魔事件 いま何が必要か」

娘がチャンネルをガチャガチャやってたらこんなのが。カテゴリ[テレビ]を新設する事態。
内容は、相次ぐ通り魔事件に共通するキーワード「誰でもよかった」を各パネラーが分析してみせる1時間。
面子は、いまいち印象に残らない吉岡忍(ノンフィクション作家)、持論を繰り返すだけの河上亮一(日本教育大学院大学教授)、派遣の元締めこと奥谷禮子経済同友会幹事 人材教育・派遣会社社長)、「ネットの書き込みはすべて見てます」の失言ですべての発言が軽くなった斎藤貴男(ジャーナリスト)、ひきこもりなら任せろの斎藤環精神科医)、今回は犯罪者世代代表の平野啓一郎(小説家)。
平野啓一郎の「社会に対するメッセージ行動だと思います」という発言には驚いた。表現者としてシンパシーを感じているのかもしれないが、実際、加藤の主張や世界観はかなりの部分ありきたり、というか、いってしまえば借り物にすぎないので、これはかなり贔屓の引き倒しに見える。三島じゃあるまいし。
対する、斎藤環の「社会という認識は希薄だったと思う」という発言のほうがしっくりきた。同様に、「誰でもよかった」なら、なぜ自身の身近な人々を襲わなかったのか? という疑問にも、「知っている人ではダメだったから」と答えており、やはり、犯人の世界観の「外」で行われた自暴自棄な、ある種の自傷行為である犯罪、との見方を提示している。
もうひとつ、斎藤環発言の「いまの若者は、昔の人のような熱を持たない」(自分探し論に接続)、「今回の一連の犯罪は、反社会的行動ではなく、非社会的行動」という部分、これも非常に印象に残った。つまり、社会へのコミットを拒絶するアナーキストの起こした事件(平野啓一郎の見方に近い)ではなく、社会にコミットできない落ちこぼれの起こした事件。
ならば、まだまだこの手の犯罪は起きるし、下手すると増加の一途を辿るだろう。
自分でどこまでこの現実と戦えるか? 戦うためのツール足りうるか? 俺にとってもここ数年が正念場のような気がする。