日米の国民性みたいななんか

前に島国さんの書いてたことって、実はロジカルシンキングの話のよーな気がしてきた。
例えば、話に上がってた兵器の場合。

日本:1.敵を殺したい→2.刀をつくる→3.もっと殺したい→4.もっと斬れる刀をつくる

アメリカ:1.敵を殺したい→2.銃をつくる→3.もっと殺したい→4.原爆をつくる

極端な例だが、「<目的>を常に考えているのなら、効果的でありさえすれば、手段はなんでもいい」はずなのだ。まして兵器のような場合、1どころか0とかマイナスの位置に、「殺傷力を求めるワケ」「戦争という手段に訴える理由」「外交で勝ち取りたいなにか」などの、より上位の<目的>が来るだろう。
それが現場で見失われ、手段が目的化するのは、例えば「職業」「職種」といった概念が個人の視野を狭め、本来の<目的>を見えなくしている(見ようとしなくなっている場合もある)から、ではないだろうか。その「職種の目的」を越えることは自分には関係ない(から上の人間がちゃんと<目的>の整合性を見る)アメリカ的国民性と、どこまでも「職種の目的」の範囲で頑張ろうとしちゃう(から上の人間は<目的>との不整合に気付かない)日本的国民性。
そして、ゲーム製作においてその限界が露呈したのが「トワプリ」ではないか。遊んでもいないのに断言するが、<目的>を見据えての手段構築が出来ていない*1のだ。そう考えると、宮本氏はすでに現場にはいないのかも。

*1:別の、もっと恐ろしい仮説もある。<目的>が定義されていないか、相反する<目的>が設定されているか、だ