「ゲーム」の定義
←の島国さん経由で。
美少女ゲームは「ゲーム」なのか
http://www.itmedia.co.jp/news/articles/0608/30/news096.html
ま ぁ た 東 浩 紀 か ッ ! !
……は、いいとして(あんま良くないが)。キネティックノベルがどーこー言い続けている俺的にはとてもタイムリーなネタだが、やっぱりこの人の「考察」には頷けない。
「従来のゲームは、プレイヤーとシステムのインタラクションがゲーム性だったが、美少女ゲームのプレイヤーは、インタフェースとマルチエンディングというシステムにゲーム性を感じているのでは」――東さんはこう分析する。
具体的にはここ。昨日の自説を引っ張るならば、「ゲーム」かどうか、の定義はゲーム参加者(プレイヤー)の、「プレイ最中の認識」による。で、あるならば、「数回の選択肢があるゲーム」と、「選択肢のないゲームらしきもの」において、プレイヤーの認識≒プレイ感覚が異なるとは、とても思えない。
さらに言ってしまえば、プラットフォーム、入出力、画面構成、題材、目的、褒賞、そしてターゲットと流通までもがまったく同一*1の「ゲームらしきもの」を、あえて「ゲーム」ではない、とする理由は見当たらない。プリミティブなユーザーインタラクション(マウスボタンを押した瞬間にストーリーが進む)はあるわけだし、『ひぐらし』に至っては古典的な「読者への挑戦状」をプレイヤーに仕掛けた「ゲーム」である*2。
つーわけで、東センセイには「ゲームと呼ばれる」→「ゲーム性がどっかにある」という考えは改めていただきたい。FFACが、ボタンで進行するPS2ソフトだったら、って思考実験あたりで。