OK?ひきこもりOK!

斎藤環とマトモに渡り合ったのは宮台真司だけか…。そーゆー意味では、対談集として半分くらい失敗している。VS東浩紀*1が特にヤバイ。相手が勝手に持論を展開するのを、うまく対談テーマに繋げられていないので、ほとんど何らの論議も深められてない。
その意味で出色はやはりVS宮台真司で、斎藤環が臨床経験から精神医学の立ち位置の掴めなさを吐露すると、それに引っ張られる形で宮台真司が自らの結論への懐疑を口にする(!)など、まさしく、互いが「その場」で影響を与え合う様子が伺えて、内容とは別に読み物として面白い。
斎藤環の「ひきこもり系」と「自分さがし系」という分類は、違う世代には同じように見える集団をうまく二分しており、俗な意味(マーケティング的な意味)で興味深い。映画ならテリー・ギリアム押井守あたりがひきこもり系、岩井俊二とかリュック・ベッソンあたりが自分さがし系の極北だろうか。『エヴァンゲリオン』を含め、基本的にムーブメントを起こすのは「自分さがし系」ばかりなのは、その社会性を考えると必然か。
TVゲームはどうだろう? 任天堂は論外*2として、ときメモがやはりガチな「自分さがし系」なのだろうか。でもアレって「承認される自己像を模索する」ゲームな割に、ユーザーは「ひきこもり系」だな。あと、よくあるCRPGって、システムは「ひきこもり系」だがストーリーは「自分さがし系」だったりしてコレもよくわからん。ただ言えるのは、SHTは『ゼビウス』以来、ゲームもユーザーも連綿と「ひきこもり系」ばっかりだ、ということだ。

*1:俺と同い年だが、現状認識は似通ってるのになぜかこの人の理論はほとんど頷けない

*2:すでに殆どの任天堂ゲーはサブカルから除外していい気がする