ピーター・モリニューのSFイズム

いきなりだが、モリニューのゲームには倫理がない。彼の名を世界に知らしめた『ポピュラス』以降、<神>テーマの作品も多いが、その神はまったく「父なる神」(キリスト教の)ではなく、もっと言えば唯一神ですらない。
欧米人の倫理観は主にキリスト教がベースになっていることを考えれば、モリニュー作品の無邪気にして残酷な神々たちは、日本で考えるより数段過激な存在と捉えられている、と思われる。
で。
『シンジケート』『シンジケートウォーズ』は原始的な神々の争いではない。世界を支配する管理社会と、それに対抗する狂信的宗教団体との血で血を洗う、というか命を命で洗う仁義なき(倫理なき)抗争を描いている。もちろんそこに「正義」などはなく、『ポスタル』に見られるような「タブーを冒す快感」もない。*1ただ手段として人を洗脳し改造し、邪魔だから殺し、または銃弾の盾にし、そしてビル破壊の為に1階で自爆させる。恐ろしいまでに徹底した、倫理に対する不感症っぷりである。
面白いのは、『シンジケート』『シンジケートウォーズ』で見られるその正義なき暴力の応酬が、作品に一際SFとしての風格を与えている点だ。価値相対の文学(SFが「未来の文学」である理由もそこにある)であるSFにおいて、ともに「救済」スローガンを掲げた2つのイデオロギーが、ともに人間の命などカケラも顧慮しないこの世界観は「まさにSF的」としか言いようがない。
いや、近未来のガジェットを散りばめた「シンジケート」シリーズだけがSF的なのではない。「テーマ」シリーズは別として、『ポピュラス』〜『ブラック&ホワイト』に繋がる<神>シリーズ、そして『フェイブル』にしても、徹底して価値は相対化されており、その姿勢は一貫したものだ。
言い換えれば、「人命は大切だ」「死は特別なのだ」と声高に叫ぶ作品はセンス・オブ・ワンダーを失しており、そこに距離をとって「さぁ、コレってどうなんでしょうね?」と読者(プレイヤー)に投げてしまう作品こそがSFである。SFとコンピューターにハマったオタクが生み育てだコンピューターゲームの世界は、まさにSFにおける最先端と言え、モリニューこそがその急先鋒であるのではないか。大塚英志的にはどう位置付けられるのかは知らないが。(尻切れ)

*1:ちなみに「GTA」シリーズも「シンジケート」シリーズと同時期にやはりイギリスで生まれた似たようなゲームだが、「タブーを冒す快感」が混じっている分、まだ一般性を持っていると言える