終わりなきゲーム

ここ数ヶ月なんだか宮台真司づいているわけだが、手当たり次第バランバランに読んでいるので時系列がなかなか頭に入らない。そんな中でも、頻出する「終わりなき日常を生きろ」というキーワードは宮台の世界観を明快に現わしており、ここだけは俺でも理解できた。なるほど、現代オタク男の苦しみは「日常を生き」られない苦しみだったのだな。
で。
任天堂Touch!Generations。こいつが「終わりなき日常」に寄りそう娯楽を提供しているのは、単にマーケティング的に合致したからか、それとも、製作者が意識的に宮台的世界観*1への処方箋としてそれらタイトルを送り出したのか?
任天堂がその答えを自ら公表することは有り得ないだろうが、個人的には、製作者のうち何人かは、意識的にそれをやってのけている気がする。特に『nintendogs』。また、無意識的にやってのけたせいで『エレクトロプランクトン』はターゲット戦略を誤ったのでは、とも。ゲームやサブカル寄りの香山リカとか大塚英志あたりがこのへん、なにか言ってないだろうか。ちと気になる。
あと、いま思うとジョー・ホールドマンの『終わりなき平和』の六〇年代ニューウェイブっぷりは、正しく日本の九〇年代に合致していたのか、と改めて驚いてみたり。あー、映画『ジャーヘッド』やっぱ観てェ!

*1:これは、製作者が「宮台の世界観そのもの」を意識しているかどうかは問わない。単に似た世界観を持っているかどうか、の話だ