「ワンクッション」の是非

エレメカの会社に入ったせいか、自分の快感原理が周りとずいぶん違うなぁ、と改めて驚かされることが多い。
エレメカはある意味理屈をコネたら負けだ。「ここが面白いんですよ」と説明してから遊んでもらうことなんて金輪際期待できないエレメカは、「溜めてドーン!」的な、ワンテンポ遅れて快楽が得られるタイプのゲームデザインはほぼ出来ない。
逆にそーゆー快楽の宝庫はパソゲーだろう。中には、はじめて数時間経たないと面白さが分からないゲームまである。それが許されるのは、パッケージ商品という性格の違いで、そう言えば、韓国あたりで大はやりのカジュアルオンラインゲームなんかは、かなりエレメカに近い文法で作られている。
で。いつも「ゲームをプレイする以上の体験」を! とか言ってるが、なんのことはない、「ゲームをプレイする以上の体験」をさせる方法は、映像、文章、音声、振動といったアウトプット単体では得られない刺激を仮想的に作っておき、プレイヤーにゲームに入って獲得してもらうしかない(少なくとも、俺は今のところ他の方法を思いつかない)。いままでいくつかは成功を収めたが、やはり「入り込んでくれ」とパッケージに書けない以上、このやり方では普通のパソゲー以上に「敷居の高い」ゲームになってしまう危険が常にある。
「ゲームに入る」にはさまざまな条件が必要だ。「必要十分で混じりのないアウトプット」「アウトプットからTVの中に世界を再構築する想像力」「没入できる環境」「没入しきるまでの時間」「直感的な操作」など。早い話、電話がかかってきたらたちまち失われてしまうような、吹けば飛ぶよな快楽に期待してゲームを作っていいのか? とゆー話になる。
最近の企業は許さないだろうが、個人的にはアリだと思いたい。この方式は人は選ぶが、インプットもアウトプットもハード性能もそれほど要求しない。言ってみれば、ワンテンポの遅れ(プレイヤー側が再構築するので)さえ許容しさえすれば、どんな快楽でも与えられる。
アルフレッド・ベスターは「本を読むことを、本を読む以上の体験」とするため、タイポグラフィーをはじめ、文字と紙面という制約の中でアウトプットに技巧を凝らした。TVゲームは小説に比べ、遥かにアウトプットを選べるメディアだ。技巧はまだまだ確立されていないが、そこには、無限に近い鉱脈が広がっているはずである。