快感の総和

TVゲームの善し悪しをその製品の与える快感の総和とすると、長い時間遊べるゲームの方がいいゲームということになる。
だが一概にそう言い切ってしまうのも危険な気がしてきた。というのは、たとえば『ときメモ』信者はずっと初代ときメモを遊んでるか? というとそうでもない。既にPCエンジンなんて押入れにしまいこんで久しいのに、その製品から継続的に快楽を得ているフシがある。
ギャルゲーでなくてもそうだ。いまドラクエ8がさかんにCMしているが、この発売をワクワクしながら待っている状態も快感だという人も多かろう。
製品が与える快感は、実はその製品を遊ばなくても(買わなくても!)味わえる部分がある。
これとは異なるが、自ら体験したパラダイムシフトとしては『イース』の登場が衝撃的だった。当時『ザナドゥ』にハマってた俺には『ハイドライド』への回帰にしか見えなかったこのゲームは、圧倒的な人気を持ってユーザーに迎えられ、本作の示した「手軽で短時間で密度の高い」ゲームデザイン手法は、いまに至るまで継承されている。
イース』は数時間で終わってしまうゲームだ。これが同様な、もっとプレイ時間の長いタイトルに比べて快感の総量で上回っているとはとても思えない。では本作をここまで押し上げたのは何かといえば、それはストレス(不快)の除去だろう。その流れから、「快感の総和−不快の総和=真の快感量」という考え方が出来そうだ。
発売延期も、キモいキャラ絵も不快要素だ。キャラ絵などには個人差が大きく、人によっては快感だったり不快感だったりする。リスクを避けようとするなら、より万人に受ける要素だけで構成することが(会社から)求められる。そうすると、「いつものワンパターン」の不快を生み、また単調さ、繰り返しのバカバカしさの不快を生む。どこまで行っても不快感から逃れることが出来ないのなら、いっそやめてしまえばいい。
いまのゲーム離れは飽食の果てだといわれている。はたしてそうだろうか? どちらかと言うと、ジャンクフードしか食えない体の人がジャンクフードすら受けつけなくなっただけのような気がする。カプコンの三上氏の言っていた「最近のゲームはジュース」発言を、煽りとしてではなく、正面から受けとめる必要があるのではないか。